努力の方向

 自分が努力をしているのに、報われないと感じるとき、

二つのことを考えてみる。

 

一つは、努力の量が足らないこと。

努力の量は、時間をかけることで解決できる。

 

もう一つは、努力の方向が間違っていること。

これを解決するのは少し難しい。

業績をあげるために、大きな神棚を作り、たくさんの神様を祀っている人を知っている。

幸せになるために、決まった言葉を毎日数千回唱えている人がいる。

何かが違うと感じる。

  

努力の方向は、きっちりとした目標を持つことから始まる。

きっちりとした目的を持ちながら、どこか遠回りしていると感じるとき、

その方法ではなくて、目的自身を疑ってみる。

本当に自分が目指しているものではない可能性がある。

夢を諦めないでという言葉をよく耳にするが、

自分自身の夢を持つことの方が難しいのかもしれない。

 

目指さない生き方、求めない生き方を思うとき、

これもまた夢かもしれない。

 

 

足の感覚

今朝の散歩は、足裏の感覚を味わいながら歩く。

アスファルトの道路。

土の感触。

草を踏む。

水溜り。

足裏に伝わる小さな石。

些細な起伏を感じる。

厚い靴底から、繊細な感覚が伝わってくる。

身体はいつも、些細な信号を感じているのだと

改めて、感心した。

 

雨のしずくが光っている。 

足元の草花が美しい。

世界はいつも足元から始まる。

平安の祈り

瞑想に関する本を読んでいて、その中に「平安の祈り」が紹介されていた。

 

神様 私にお与えください。

自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを、

変えられるものは 変えてゆく勇気を、

そして二つのものを 見分ける賢さを

 

この平安の祈りを最初に聞いたのは、もう20年ほど前になる。 

アルコール依存症の友人が教えてくれた言葉で、AA(アルコホーリクス・アノニマス)で、会の始まりや終わりで皆でよく唱えるのだと語っていた。

アルコール依存からゆっくりと立ち直り始めた友人が、明るい希望に満ちた顔で話してくれたことを思い出した。

良い言葉だと思ったけれど、当時はそれ以上の思いはなかった。

今改めて読み返すと、奥の深い言葉だなと感じる。

私たちは、変えられないものを変えようとして苦しむ。

変えられると知りながら、なぜか変えることが出来ない。

 

変えられないものと、変えられるものを見分ける賢さは、どのようにすれば身に着くのだろう。

この言葉を教えてくれた友人とも今は音信不通だ。

アルコール依存症に苦しむ人たちが、この祈りの言葉を、どんな思いで唱えていたのかと思うと、胸が塞がれる思いがする。