少しこころを休ませよう

吉野で仕事を始めて4年、いろいろな意味で疲れが出始めたようだ。

突っ走ってきたから、余分なものを持ちすぎたのだろう。

仕事が増え、知り合いが増え、荷物と責任が増えた。

社会と関わる時間が増えて、自分を労る時間が減った。

人の心配をして、自分の心配をするのを忘れていた。

 

先週、ビオダンサで感情を解放してから、自分の中の無理をしている部分が徐々に明確になってきた。

このあたりで、少しこころを休ませよう。

身体を労わろう。

身体は、心地よい場所を選んで静かに過ごせばいい。

しかし、こころを休ませる場所は、自分の中にしかないから

自分の中に、自分を休ませるスペースを作ろう。

これが、思っているより難しくて、すぐに不安が心を支配する。

物理的に溜まっている仕事はどうしようか。

納期が近いな。プロジェクトを走らせないと。

呼吸の合間、合間に不安の種があるのが分かる。

今回は少し根が深い。

 

スティーヴン レヴァインの「余命一年…だとしたら」を読み返す。

自分の余命を後一年だと思って生きてみたら、

私は何を手放すのだろう。そして何を残すのだろう。

何を目指すのだろうか。どこへ行くのだろう。

ゴールデンウィークの間に考えてみよう。

でも、これではこころを休ませることはできないな。

 

気分を変えて、近くの公園に名残のさくらを見に出かける。

ワープロとスマートフォン

Xperiaを発売日に購入してから24日が過ぎて、やっと使いやすく、手になじむ道具になってきた。

ガラパゴス携帯と呼ばれる機種からXperiaに機種変更をして、いろいろと使いこなして行くことが楽しくて、毎日インターネットで情報を収集しながら、ソフトを入れ替えている。

ふっと二十数年前、ワードプロセッサーからパソコンへの移行期を思い出した。

もう記憶が定かではないが、一番最初に使ったワープロはbrohterのピコワードで、画面も一行が表示されるだけで今から考えると実用には耐えないのかもしれないけれど、楽しくずっとワープロに向っていた。

ワープロは、パソコンと違い文章作成に特化した機能で日本に優しく高齢者の方にも親切で急速に普及した。

そのころ特別なスキルがないと使いこなせないパソコンに、一太郎というワーブロソフトが登場して、パソコンで文章が作成出来ると言うことで、一太郎搭載のパソコンが売れ始めた。

今はワープロの販売は中止されてすべてパソコンになってしまった。

日本語という文化を理解し、使う人に優しかったワープロが、グローバルという名のパソコンに移行したとき、パソコン大好きの私はとても喜んだが、多くの中高年や機械音痴の人たちは取り残されていった。

iモードなどの携帯メールは、パソコンに弱い人にも使いやすいようで、過疎化の進む吉野地方でも中高年の方は、パソコンのメールに変わって携帯のメールを使う機会が多い。

私のイメージでは、使いこなさなければ何も出来ないスマートフォンは、黎明期のパソコンを思い出す。ガラパゴス携帯と呼ばれる現在の携帯にワープロの面影を見る。

世界で通用しないと言われる日本の携帯は、いずれ世界を目指すためにグローバル化していくのだろうが、使いやすくて、日本語を理解している、日本が育てた携帯の文化をすてないで欲しいと思う。

先日総務省が、携帯端末のSIMロックの在り方についての公開ヒアリングを行ったが、もしSIMロックが解除されることが起こると、一気にスマートフォンに移行する可能性がある。

携帯からスマートフォンへの移行は、ワープロからパソコンへの移行期に似ているような気がしてならない。この移行期に多くのワープロユーザーが取り残されたことを思い出し欲しい。私は今でも文章を作るだけなら、ワープロは最高の道具だったと思っている。

赤いケースを付けたXperia

Xpeiaで撮影したさっちゃん

はつなつの風

打ち合わせの時間より少し早く到着したので、車を止めて道ばたを散策する。

厚い雲間から朧気な太陽が顔を出し、温かい光が足下に届きはじめる。

やさしい風が初夏の訪れを伝える。

奈良を愛した歌人、会津八一の歌

「はつなつ の かぜ と なりぬ と みほとけ は 
                をゆび の うれ に ほの しらす らし 」

(初夏の 風となりぬと み仏は を指のうれに ほの知らすらし)

これは、「初夏の風になったのだと、み仏は、小指の先で感じておられるようだ」というような意味で、弥勒菩薩の指先の美しさに、初夏の風を感じた様子を会津八一が上手く表現している。

私はこの歌が好きで、初夏になるとよく思い出す。

中宮寺弥勒菩薩を見たときの歌と言われているが、み仏の優雅な小指の先に初夏の風を感じる感性はすばらしい。

豪放磊落で有名な会津八一が歌人であるとき、限りなく繊細でたおやかな感性を持っている。

私もカメラを持ったときくらい、八一のような感性を持ちたいものだ。

若い頃に出会った会津八一の歌が、いま心に染み渡る。

遷都1300年祭で賑わっている奈良で、会津八一の名を聞かないのは不思議だ。

鈍い空の色もまた美しい。