光の移ろい

晩冬の繊細で直線的な光が

初夏のおおらかで包み込むような光に変わっている。

毎日、同じ場所で、同じように写真を撮っている。

ある日、パッと光が変わって見える。

まるで違う場所を歩いているかのような錯覚に陥る。

こんな日は、何を見ても、どこを見ても

美しくて、いとおしく感じる。

のらばえ

少し前に住んでいた山村では、誰も植えていないのに咲いている花や木々を「のらばえ」と呼んでいる。

お茶なども、のらばえの木が多く、新芽を集めてお茶にすることも出来る。

手入れのされていない道ばたや畑に、のらばえの花がかわいく咲いている。

 

しかし、人に管理されていない「のらばえ」はあまり良い意味では使われない。

山村では、畑に「のらばえ」があることは恥ずかしく、畑や家の周りには、雑草は生えていない。

野良とは、野原や野のことを指すが、「のら」と書けば、怠け者や放浪者の事を指す。

野良犬や野良猫は、管理されていない、どこにも所属していない、本来ならば属していて当然というニュアンスがある。

だから野生の動物は、野良イノシシとか野良鹿、野良狸とは言わない。

 

「のらばえ」という言葉を山村の人が使うときには、微妙なニュアンスを感じる。

どこかに属さないと生きていけない、地域に属さない人を認めにくい、山村ならではの言葉のような気がする。

10年間どっぷりと浸かった山村を出て、3年。また「のらばえ」に戻ったような気がする。

属さない自由と属さない寂しさ。

 

野良に生えて、野良に映える。

やはり、私はのらばえでいい。

写真から分かること

友人からのメールで、草花の写真が多いことに気づいた。

足下を見て歩く時間が増えたのか、小さな草花の写真が多い。

 

私にとって、写真は感性の杖。

私とは何か、世界とは何かを写真に尋ねてきた。

 

まず、写真が感じ、変わり始めて、自分自身がそのことに気づく。

自分が変化していくとき、写真に写る世界が変わる。

写真を見る感性と感情が変わるとき、自分の変化に気づく。

 

何が変わろうとしているのか、

どう変わろうとしているのか、

無理に言葉を与えることなく、

ゆっくりと感じていこう。