この空だから見える景色がある。
春から夏へと向う、もう一つの季節。
夏を迎えるために、生きとし生けるものが、ひっそりと闇をやり過ごす時。
蕪村に
「 紙燭(しそく)して廊下通るや五月雨(さつきあめ)」
という句がある。
梅雨闇の日中、紙燭を手にした女性が、長い廊下を渡っていく。
闇の中を紙燭の光がたゆたいながら、ゆっくりと流れていく。
まるで一人飛ぶホタルのように。
梅雨は、一人を楽しみ、孤独を味わう時かもしれない。

光と風の交わる場所で
五風十雨とは、5日毎に風が吹き、10日毎に雨が降ることをいい、順調な天候を現している。
最近は、梅雨の走りで雨が続くが、これもまた五風十雨だなと思う。
良い天気も悪い天気もなく、私たちが自分かってなラベルを天気に貼り付けているだけで、天の気の変化に良いも悪いもないような気がする。
私たちは、ジャッジを下しながら毎日を送っている。どんな些細なことも。
どんな日も、どんな天気も喜べる生き方はどんなのだろう。
ノンジャッジに生きるとはどういうことだろう。
たぶん、仏教でいう「無」の世界は、ノンジャッジの世界ではないのかと、勝手な想像をする。
ノンジャッジになるとき、世界と一つになり、無限の無の中に入るのだろう。
良寛さんが、災難を避ける方法を聞かれたときに
「災難に遭う時は、災難に遭うがよろしかろう
死ぬ時は、死ぬがよろしかろう
是、災難を逃れる妙法なり。」
と答えている。
良寛さんのなかでは、どんな災難も五風十雨なのだろう。
雨の日には雨の写真。
熊野の友人が二人、久門太郎兵衛さんの所へ遊びに行った帰りに我が家に寄ってくれた。
久門太郎兵衛さんといえば有機農法の先駆けで、多くの農業指導者に影響を与えた方で、二人は、大阪にいるとき久門さんから農業を習っていた。
私も自然農で知られる川口由一さんに憧れ、影響を受けた時期もあったが、どうも農業には馴染めなかった。東吉野の山村に移り住んだときも、熱心に野菜を作ることをせず、あまり土に触れることもなかった。
馴染もうとして馴染めない、農の世界。私の周辺には就農者も多く、機会はいくらでもあったように思う。
吉野へ引っ越しをしてから、仕事も忙しくなり農のことを思うこともほとんどなくなったが、いつもこころの奥底では、農の存在を意識している。
命とか、自然とかを考えるときにいつも農が頭をかすめる。
自分の生き方を農業で実践している人に、強いあこがれを感じる。
いつか農と強く関わることがあるのだろうか。
農だけがすべてではないことは、分かっているのだけれど。
私には、私の出来ることがある。それは、農ではないのだけれど。
農は私の中の永遠の保留のような気がする。
土曜日は、夏のような日差しにも関わらず、花たちを美しく飾る光で満ちあふれていた。