ゆっくりとした時間のために

 ゆっくりとした時間のために、ゆっくりとしたカメラを使う。

マニュアルの機械式カメラにモノクロのフィルムを入れる。

36枚の撮影が終わるのに、1週間ほど

モノクロフィルムの現像に1週間ほど時間がかかる。

だんだんとブログの更新が伸びていく。

一番最初に撮影した写真を見るのに、2週間もかかっている。

子供の頃カラー写真が高くて、フィルムを入れても簡単に撮影することが出来なかった。

写真屋さんで受け取った写真には、色々な季節の行事が写っていた。

 

写真には空気と光が写る。

光を横切る風が写る。

古いレンズ特有のフレアーが写真に拡がり、懐かしい時間が蘇る。

暖かみのある光と包み込まれるような空気。

優しく抱きしめられた感触が蘇る。

何時の日の記憶だろう。

この世に生まれる少し前のような気がする。

 

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習得できないものたち

覚えたい、習得したいと思いながら出来ないものが3つある。(本当はもっとたくさんあるけれど)

一つは将棋。詰め将棋や定跡の本を買って勉強しても、一向に上達の気配がない。

パソコンの初心者対象の将棋に負け続けている。いつも途中で投げ出してはまた振り出しに戻る。

次は、英語。これはパソコンを扱うときに必要になることが多いのと、もし外国に行くことがあれば役に立つかなという思いから。

この二つは、試行錯誤の末、私には独学では難しそうなので、ほとんど諦めてしまったが、まだ微かに心の底の方で燻り続けている。

将棋はいいとしても、英語は実務でも役立つので何とかならなものかと思っている。

そして3つ目が哲学やシュタイナー関係。

これは付き合いが長い。上二つよりも費やした時間は長いのに、ほとんどと言っていいくらい身についていない。話の中で出てくることもまず少ない。

しかし仏教や禅の本は、けっこう身に染みついていて、言葉の端々に登場するし、考え事をしているときに参考にしている。

 

どうして、習得できるものと出来ないものが在るのだろうかと考えたりする。

何か考え方が悪いのか、脳に適正があるのか。

習得出来る秘密があるのに、それが私にだけ明かされてないのか。

身体的なことが原因で習得出来ないものは、現世では無理なので諦めている。

一番がお酒。これは身体が受け付けない。次が音楽とダンス。これも生理機能の問題のような気がする。

 

私はよく、「欠点を克服している暇があれば、長所を伸ばそう」と言っている。

自分に足らないものを補っても、普通のレベルくらいにしかならないし、その割には時間を費やす。

長所を伸ばせば、自分の得意が増えて仕事にも結びつけやすい。

しかし、自分の長所を考えるよりも、短所や足らない部分を考えるいる方が得意のようだ。

自分のいいところを説明すると5分で済むけれど、短所や足らないところを話すと1時間では済みそうもない。

 

もう少し自分のいいところを見直さないと自分が可哀想な気がしてきた。

せめて10分くらいは話せるようにしたいな。

 

才能に悩むことがあっても、写真はいつも自分と共にある。

得意・不得意を超えて写真は私と共になる。

ほんとに好きなものは、習得するとか、勉強するとかの思いがないのかもしれない。

もう一人の「鈴木」-鈴木俊隆

絶版になっていて一度読みたいと思っていた本が、新しく出版された。

本のタイトルは、「禅マインド ビギナーズ・ビギナーズマインド」

著者は、「鈴木俊隆」という。

日本の仏教や禅を世界に紹介した人に「鈴木大拙」がいるが、この人はもう一人の偉大な「鈴木」だ。

鈴木大拙さんはダイナミックな表現、悟りについての詳細な表現で読む人を魅了し、多くの著作を残した。

しかし鈴木俊隆さんは生涯に1冊しか本を残さなかった。彼がアメリカの仏教・禅に与えた影響に比べると、彼の情報は極端に少ない。

鈴木俊隆さんの名前は、アメリカの仏教やビートニクスなどのカウンターカルチャーに関する本によく登場し、以前から彼の教えを知りたいと思っていた。

しかし「禅へのいざない」というタイトルの本が絶版になり、彼の思想や言動を知ることは出来なかった。

今回、「禅マインド ビギナーズ・ビギナーズマインド」とうタイトルで新しく出版され、やっと彼の言葉に触れることが出来る。

秋の夜、静かに露が降りるように、ゆっくりとこの本を読もう。

ここで語られる言葉を知ることは出来ても、生きることはできないだろうな。

禅は知るものではなくて、生きるものだから。