愛なのかもしれない

「わたしが一番きれいだったとき」という言葉で書き始めると、茨木のり子の詩を思い浮かべるが、

わたしの感性がいちばんきれいだったとき、私は、漠然と根拠もなく、世界はよくなると思っていた。

ジョン・レノンの歌を口ずさみ、ベトナム戦争の反動で世の中には、愛と平和が溢れていた。

フラワーチルドレンたちは、「武器ではなく、花を」と訴えていた。

様々なムーブメントを通して発せられるメッセージの多くには、愛と平和への深い想いがあった。

 

しかし昭和の思いは置き去りにされて、いつしか世界は、安全を求めるようになっていた。

有事という言葉が盛んにマスコミに登場し、どうすれば日本の安全を守れるのかが議論されている。

もう自由とは何かが、語り合われることは無いのかもしれない。

国益や安全という言葉が、自由や愛という言葉を覆い隠し始めているような気がする。

 

私は忌野清志郎さんの「 IMAGINE」を聴くと、いつも胸が押しつぶされる。

私たちの世代は、ただ夢を見ていただけなのだろうか。

私たちの世代だけが、愛と自由にこだわったのだろうか。

このビデオの「君一人じゃない 仲間がいるのさ」いう箇所でいつも泣いてしまう。

今の私たちに一番必要なのは、やはり愛なのかもしれない。

ルーシー・リー展

あこがれのルーシー・リーの回顧展が東洋陶磁美術館で開催されているので、久しぶりに大阪に出かけた。

東洋陶磁美術館はお気に入りの場所で、大阪でゆっくりとした時間が持てれば一番最初に訪れたいと思う場所の一つだ。

ここの常設の陶磁器が大好きで、吉野に住んでいても時々無性に訪ねてみたくなる所だ。

ルーシー・リーの作品を見ていると、心にさわやかな風が吹き、心が浮き立つ感じがする。

素敵な女性を思い浮かべると、ルーシー・リーの陶磁器に近いのかもしれない。

端正で美しく、モダンで控えめな優しさに溢れている。

しかし自己主張はしっかりとしていて、きっちりと世界と向き合っている。

一足早い春風を心に感じながら、幸せな気分でルーシー・リーの展示室を出た。

 

常設の展示室に入ると昔よく見た、陶磁器が並んでいる。

入り口付近に油滴天目 茶碗が置かれていた。小振りで美しい。

奥に進むと、高麗の青磁が眼に入る。

そのやさしさと美しさにため息が出る。魂が喜んでいるのが解る。

東洋陶磁には、神様が窯の中でいたずらしたとしか思えないものが数点ある。

少し歪んでいる姿が、なんとも美しく、人為を超えた力を感じる。

そして、包容力のある青磁の青に眼が喜んでいるのを感じる。

 

スージー・リーの作品は、芸術性の高さとモダンなデザイン、端正な美しさで私の感性を刺激し楽しませてくれた。

しかし、高麗の青磁は、私の魂を静かな喜びで満たしてくれた。

あの無名の美しさ。ただ美しいという理由だけで、どれだけの人の手を経てきたのだろうか。

今日初めて、私が東洋陶磁美術館が好きな理由が分かったような気がした。

私も何時の日か、魂に届く写真を撮りたいと思った。

 

数年ぶりに歩いた中之島は、なぜか切なかった。

午後3時を過ぎると太陽がビルの影に隠れてしまった。

こころでからだの声を聴く

年末から多くのことが一度に起こり、1月の末になるのに、まだ生活のリズムが掴めない。

相棒のサテが腰痛を起こして、日課の散歩に行けないのが原因かもしれない。

 

今日は朝から雪が降ってきたので、一人で散歩に出かけてみた。

遠くに見る雪ほどゆっくりと舞い降り、近くの雪ほど素早く私の前を通り過ぎる。

こんな当たり前のことが楽しくて、少しの間、雪を見ていた。

 

心が静かになってきて、手足の冷たさが伝わる。

今日久しぶりに、身体の声を聴いたような気がする。

足が地面の土を感じ、冷たさを伝える。

顔が風を感じる。

この冷たさが、寒さが心地良い。

 

家に戻って、書棚から「こころでからだの声を聴く」というOSHOの本を取り出す。

パラパラと本を斜め読みする。

OSHOからのメッセージが届く。

 

そうか、この数日、私は、こころに身体を従わせようとしていたことに気づく。

仕事が忙しいとき、用事が重なるときにはいつも、こころで身体を従わせようとする。

身体が悲鳴を上げているのに、そこの声を聴かずに、心の思いを身体に届けようとする。 

 

食べたくないときに食べ、眠りたくないときに眠る。

休みたいときに、仕事をする。

 

またしても、身体が自然の一部であるということを忘れていた。

ビオダンサに行くと、いつもこのことを思い出すのに。

 

私は自分の心に語りかけるように、自分の身体に語りかけなければいけない。

こころの声を聴くように、身体の声を聴かなければと思う。

 

「こころでからだの声を聴く」

OSHOの言葉が疲れた身体に染み込んでくる。

OSHOの言葉を違う切り口から味わうことの出来る本です。