GoD and DoG

youtubeでの素晴らしい投稿を教えて頂いたので紹介します。

辞書を引きながら、何度も見ました。

何度も見ていると、胸がいっぱいになって、涙が溢れてきます。

私たちが、私たちに戻るとき(気づくとき)、いつも世界は私たちを祝福してくれます。

そのことも合わせて教えてくれています。

でも、そんなことは、関係なくとても感動する投稿です。

昨年の春に旅立った犬のことが美しい記憶と共に蘇ってきます。

I Look up and I see God.
I look down and see my dog.
Simple spelling GOD.
Same word back wards DOG.
They would stay with me all day .
I’m the one who walks away.
But both of them just wait for me…
And dance at my return with glee.
Both love me no matter what…
Divine god and canine mutt…
I take it hard each time I fail.
But God forgives.
Dog wags his tail.
God thought up and made the dog.
Dog reflects a part of God.
I’ve seen love from both sides now.
It’s everywhere…
Amen  Bow…WOW…
I Look up and I see God.
I look down and see my dog.
And in my human frailty…
I can match their love for me.

通りすがる人生

ビオダンサに向う環状線の中で、ぼんやりと擦過する風景を眺めていた。

都市の場末を感じさせる寺田町や桃谷は私の好きな場所だ。
 
過ぎ去るビルを眺めていると、
ふっと「私は祝福されている」という感覚が浮かんできた。

祝福されている私がいて、
辛いと思い悩む私がいる。

これは、同じことの違う表現だなと漠然と感じる。

ビオダンサの会場に行くと、いつものあたたかいメンバーがいて、
いつものように、輪になって踊り始める。

瞑想では、こころにからだが溶けていく感じがするが、
ビオダンサでは、からだにこころが溶けていく感覚が楽しい。

自分が主体になり、自分と関わり、その自分が人と係わる。
日常にはない濃密な時間が流れる。

ビオダンサでは、自分が自分の主役になる。
その主役同士が出会い、つながりを持つ。
そして、また別れていく。

出会って別れていく、この感覚が好きだ。
 
エンディングの音楽に合わせて輪が回るとき、ゆっくりと現実に戻る自分を感じる。

ビオの会場を出るとき、主体的な自分をそっと、ビオの会場に置き去りにする。

自分が自分の主役になる時間は、ビオの終了と共に消えていく。
 
 
日常の私は、自分自身の人生においてさえ、通りすがりでありたいと思っている。
本当の私や、探して出会える自分はいないなと感じている。

自分の人生のちょっと素敵なバイプレイヤーでありたいと思う。
この時代、今を生きている「私」を影で支える私がいる。

生きがたさを感じる「私」がいて、祝福を受ける「私」がいる。
そしてそれを見続け、励ます私がいる。

自分に死が訪れたとき、あの世に持って行けるものはなんだろうと、ふっと思ったりする。

ここに私が考えていることの答えがありそうな気もする。