ビオダンサに向う環状線の中で、ぼんやりと擦過する風景を眺めていた。
都市の場末を感じさせる寺田町や桃谷は私の好きな場所だ。
過ぎ去るビルを眺めていると、
ふっと「私は祝福されている」という感覚が浮かんできた。
祝福されている私がいて、
辛いと思い悩む私がいる。
これは、同じことの違う表現だなと漠然と感じる。
ビオダンサの会場に行くと、いつものあたたかいメンバーがいて、
いつものように、輪になって踊り始める。
瞑想では、こころにからだが溶けていく感じがするが、
ビオダンサでは、からだにこころが溶けていく感覚が楽しい。
自分が主体になり、自分と関わり、その自分が人と係わる。
日常にはない濃密な時間が流れる。
ビオダンサでは、自分が自分の主役になる。
その主役同士が出会い、つながりを持つ。
そして、また別れていく。
出会って別れていく、この感覚が好きだ。
エンディングの音楽に合わせて輪が回るとき、ゆっくりと現実に戻る自分を感じる。
ビオの会場を出るとき、主体的な自分をそっと、ビオの会場に置き去りにする。
自分が自分の主役になる時間は、ビオの終了と共に消えていく。
日常の私は、自分自身の人生においてさえ、通りすがりでありたいと思っている。
本当の私や、探して出会える自分はいないなと感じている。
自分の人生のちょっと素敵なバイプレイヤーでありたいと思う。
この時代、今を生きている「私」を影で支える私がいる。
生きがたさを感じる「私」がいて、祝福を受ける「私」がいる。
そしてそれを見続け、励ます私がいる。
自分に死が訪れたとき、あの世に持って行けるものはなんだろうと、ふっと思ったりする。
ここに私が考えていることの答えがありそうな気もする。