Lady Day Billie Holiday

この二週間ほど毎日ビリー・ホリデイを聞いている。

10枚組のLady dayを順番にかける。

若く美しいビリーがいる。

ご機嫌にスイングして、独特のリズムと声でJAZZを歌い上げるビリーがいる。

レスターヤングがルイアームストロングが、ベニーグッドマンが寄り添い、時に高らかに音を響かせる。

 

そして午後の日射しが傾く頃、Lady in SatinにCDを入れ替える。

薬と病気の中で声を失い、それでも歌うビリーがいる。

優雅なストリングをバックに苦しそうに声を紡ぐビリーがいる。

心に歌声が染み、夕暮れと共に、切なさが染み渡っていく。

このCDの後、どのジャスボーカルを聞いても物足りなさを感じてしまう。

 

初冬にはいつもビリー・ホリデイを聞いている気がする。

しかし今年ほど、Lady in Satinを切なく感じた年はない。

年と共に深まる音楽があるのかもしれない。

 

ビリーに一枚の写真を捧げたいと思うけど、きっと今生では無理なような気がする。

いつの日か、ビリー・ホリデイの歌声が聞こえるような写真を撮ってみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の明暗

冬の光はまっすぐで独特の明暗を作り出す。

写真はいつも光と影を追いかけている。

 

よく、自分の中には2種類の自分がいるという。

道徳的な自分とそうでない自分。

正直な自分と嘘をつく自分。

これは、社会という光を自分にあてることで生じる。

社会という尺度では、私はいつも矛盾する存在だと気づく。

 

しかし自分に「生命」という光をあてると、

自分は世界と一つであることが分かる。

自分も世界も分けられないのだと気づく。

 

 

 

レトロということ

日曜日に、吉野町商工会青年部が主催するレトロカーフェスティバルが開催された。

懐かしい車や私が生れる前の、とても古い車もあった。

殊更古いモノがいいとも思わないが、良いものは古くても良いのだということを改めて認識する。

一目見て、美しいという言葉が浮かんでくる車がある。

曲線が官能的で、存在の仕方がとても有機的なのだ。

 

「ナイン」という映画のなかでも、ブルーグレーのアルファ・ロメオ ジュリエッタスパイダー

で海岸線を走る去るシーンがある。

ため息が出るくらいに美しい。

 

車のデザインが人に近いという気がする。

最近は無理をしてまで手に入れたいという車が少ない。

車が人から遠ざかり、機能に、企業に向いているような気がする。

私たちは、何を得て何を置き去りにしたのか。

その答えがレトロカーフェスティバルにあるような気がした。

 

ライトウェイトオープンカーの幌を明けて、夜明けの海岸線を走る抜ける。

大型のコンパチブルなら、ルート66をひたすら走り続けるのもいい。

仕事のためや家族のためではなくて、自分のためだけの車があっても良いと思った。