曇りの日の写真

写真は光を感じ、光を撮る。

その意味で、曇りの日は写真には向かないような気がする。

曇りの日に、写真を撮ることは少ない。

しかし、曇りの日に、カメラを手に歩くことがある。

自分のこころを抱きしめるようにゆっくりと歩く。

自分の中にある寂しいこころ、心細さをかみしめるように歩く。

 

フラットな光は、植物に安らぎを与え、木々を渡る風もどこかリラックスしている。

特別でない時間の安らぎ。

カメラを向ける世界のないくつろぎ。

いつもとは違う事物の姿が愛おしい。

写真的ではないのかもしれないけれど、安らぎに満ちあふれている。

 

明日になれば、この世界はまた光に満たされる。

光に向かい、光を受け入れるために、陰を作るために、

事物は曇りの日に少し休息を取る。 

 

厚い雲の向こうには、光と宇宙がある。

そのことを信じて、自分を休める時間。

だから、曇りの日の写真はそっとシャッターを押す。

休息を妨げないように。

2度目のビオダンサ

先日の日曜日、二度目のビオダンサに参加した。

前回のように感情が大きく解放されるという感じはなかったけれど、こころの底から「ビオダンサ」を楽しむことが出来た。

 

前回のビオダンサに参加して、大きく自分の感情が解放されたその感覚を毎日味わいながら、その根底に流れるものが何かを考えてた。

そしてふっと、「私は人とつきあうのが苦手だ」ということに気がついた。

そうか「自分は人とつきあうのが苦手なのか」と思った瞬間、こころが楽になった。

へえ~、私が人付き合いが苦手、人前でプレゼンテーションをすることに苦痛もなく、誰と出会っても、無理なく会話をしている自分が。

でも確かにそうらしい。自分の知らない自分発見。

 

私はいつも、自分が人に受け入れてもらえるかどうかを、悩んでいたのだろう。

人との距離感が掴めなくて、こころのどこかに違和感があったのだろう。

 

ビオダンサでは、自分のすべてを受け入れてもらえる。

それもノンジャッジで。

そしてそのことが無性に、どうしようもなく嬉しかったのだ。

自分は、人のすべてを受け入れることができなのに、受け入れてくれる人がいる。

この思いが感情となって、感謝の気持ちとなって、涙となって溢れたのだろう。

ほんとうに貴重な経験だった。

人と繋がること、受け入れること、感謝すること、喜び合うこと、愛し合うことのすべてをビオダンサで感じることができる。

 

今回のビオダンサでは、すごくリラックスして、最初から自分を解放し、楽しい時間を過ごす事が出来た。

大阪クラスの素敵なメンバーのみなさんどうもありがとう。

またお会いできることを、とてもとても楽しみにしています。

 

最近はどこを見ても、何を見ても美しく見える。

荒川修作さんのこと 

荒川修作さんが亡くなったという記事を見た。

73歳と書かれていた。そうかと思ったけれど、草間弥生さんや元永定正さんが80歳を超えたので、若い人のような気もする。

私が最初に荒川さんの作品を見たのは、30年ほど前、大阪の国立国際美術館だったような気がする。

荒川さんの代表作「意味のメカニズム」の奥付をみると1988年3月になっている。

そのころは大阪に住んでいて、現代美術が好きな私たちは、よく美術館に出かけた。手にはプレイガイドジャーナルを持って。

前衛・具体などから少し遅れた世代の私たちだけど、アンデパンダン展などが好みで、現代美術の発するエネルギーがとても刺激的だった。

美術館に行くと、ウォホールやリキテンシュタインなどの作品があふれ、遅れてホックニーがやってきたような気がする。

ナム・ジュン・パイクのビデオアートに驚いたのもその頃かもしれない。

寺山修司のレミングを見たのも、マヤ・デーレンを見たのもその頃だと思う。

自分の感性が全開し、世界をすごい速度で吸収していた時代。

今は遠い思い出で、年寄りの繰り言のようだ。

吉野地方に住んでいると、歴史と自然には恵まれているが、新しい感性と出会うことが少なくなる。

自然から教えられることもたくさんあるが、音楽や美術から得られるものも多い。

新しい感性に飢えているのかもしれない。

今年は、少し街にも出かけてみようかと思う。

しかし、荒川修作とマルセル・デュシャン。意味も理由もなく、ただ好きだった。

がむしゃらに好き、意味もなく好きは、若さの特権なのかな。