蓮への思い

今回でこの蓮畑の撮影は4回目になる。

自分の写真を見ていてもどかしく、しっくりと来ない。

恋い焦がれていた人にばったりと出会って、どうして良いか分らずに右往左往しているようだ。

今回は勇気を出して、思いを打ち明けて見たが、どうも上手く伝わらなかったようだ。

私の思い込みの強さに、相手が引いてしまったのかもしれない。

 

私にとっての良い写真とは、写し取った写真の結果だけではなくて、その出会いのプロセスが、撮影までのこころの有り様が大切になる。

私の写真は、私と光景の微かな、しかし、愛おしいこころの交流から生れる。

私の思いと光景の思いとが上手く重なるとき、素敵な写真を撮ることが出来る。

そこに日常を超えた、私だけの光を見ることができる。

 

この蓮の写真を見ていて、自分の写真に対する課題の多さに気づかされる。

このとても楽しみな修行は、まだまだ続きそうだ。

 

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午後6時の蓮

打ち合わせより30分早く到着したのは、蓮の花が見たいから。

吉野での仕事先は、自然に恵まれていて、出かけることも楽しい。

お盆を過ぎると蓮の花はすべて出荷されて、葉っぱだけが残っているのかと思っていたら、白い蓮がたくさん咲いていた。

夕方の光は力強くて、蓮を輝かせる。

午後6時の光で見る蓮も、また美しい。

 

東吉野 灯籠流し

前の住まいは、清流の美しい東吉野村の小さな集落。

私はここで、人が生きること、自然、地域、田舎暮らし、など様々な事を学んだ。

つらい時間と楽しい時間が大きな振幅を伴って思い出される東吉野での生活は、懐かしく、温かく、そしてほろ苦い。

 

お盆の15日、用事があって東吉野を訪ねた。

山村では、夕日を見ることが出来ない。

傾き始めた太陽は、すぐに山の中へと消えていく。

日の陰りは早く、川も山も夕闇に消えていく。

この数年、夕日の写真が多いのは、夕日を見ることが出来なかった山村生活の反動かもしれない。

心地よい川風が吹き、薄暮で覆われる頃、盆踊りと灯籠流しの準備が始まる。

白熱灯の元で夜店が始まる。

小さな輪が出来て、盆踊りが始まる。

田舎を持つ人々の帰郷で、つかの間の賑わいが戻ってくる。

すべての行事の終わりを告げるかのように花火が上がる。

東吉野を出て4年。

多くの出会いと別れを繰り返しながら、吉野で暮らしている。

この年になって初めて、自分が自分を生きているという実感がある。

昔ほど自分の居場所を探さなくなった。

人に好かれようという気持ちも薄れた。

 

みんなありがとう。

この文章の締めくくりの言葉を考えていると、ふっとこの言葉が浮かんできた。

みんなありがとう。か、出来ればみんな愛しているよ、にならないかな。

いつの日か、みんな愛しているよに変わることができるのだろうか?