始まりと終わりの間で

小さな農機具小屋に展示された自分の写真を見ながら一日を過ごした。

黄砂で覆われた空は、空全体がディフューザーのようで光の煙幕に覆われていた。

男4人、時計ストーブにあたりながら、あてどもない話をした。

ただ時間が過ぎていく感覚が心地良かった。

だれも格好の良いアイデンティティなんかを求めていなくて、とてもリラックスしていた。

話が途切れると、煙突から出る煙を見たり、コスモスを見て過ごした。

     

ヒビノカケラ展の写真を準備しながら、何かが終わっていくのを感じていた。

  

壁に並べられた自分の写真は、きっちりと自分が表現されていて心地よかった。

写真から感じる軽やかさが自分の求めていたものだ。

写真を撮ることで、私は自由を求めていた。

束縛のない感性を得たいと思っていた。

そのことに一つの区切りがついたのかもしれない。

これ以上に求めることの難しさを感じたのかもしれない。

  

私の中の何が終わるのだろう。

それが何かは分からないのだけれど、

終わって行くという感覚は、結晶のように残っている。

若いころ、終わることは始まることだったような気がしていた。

始まることのない、終わりとは何だろう。

始まりと終わりの間には、何があるのだろう。

展示の終わった写真を片付けながらそんなことを考えていた。

 

小さな写真展-ヒビノカケラ展

時々遊びに行く、木津川の河川敷にある、とても小さくて可愛い地球小屋tipiで写真展が開催されます。

地球小屋写真gallery 「ヒビノカケラ展」

小さな小屋にみんなで写真を展示します。

今回は、このヒビノカケラ展に出す作品を少し印刷しました。

過去から最近の写真をゆっくりと見直して、印刷するという作業は、楽しくてなかなか前に進まない。

印刷した写真を床に並べてみると、個々の写真を超えてゆっくりと全体が見えてきます。

一昨年より、去年、去年より今年、草花たちや自然に寄せる思いが深くなって来ているような気がします。

自分の心の変化や感性の変化が分かる。

少し照れくさいような、嬉しいような不思議な気持ちです。

自分の写真をこんな風に並べてみるのは数十年ぶりでとても新鮮。

招待してくれたパナさん、どうもありがとう。

日々変化する光が美しい。

美しいヒビノカケラ。

 

 

ビオダンサ 歓びのとき

ビオダンサに参加するのは今回で4回目になる。

少し余裕も出てきて、自分と向き合うことも、人を感じることも出来るようになってきた。

回を重ねる毎に、徐々に経験が深まりビオダンサが心身に浸透してくることが分かる。

自分の内面と身体を感じながらゆっくりと身体を動かす。

手を静かに揺らし、揺れる手と心を感じる。

手の揺れが身体に伝わり、さざ波のように拡がっていく。

閉じている目に光を感じたと思った瞬間、

朝露に濡れる草花に、太陽の光が朧気に差し込むイメージが浮かんできた。

胸を拡げて、手を高く上げると、霧がはれて、朝露が輝き始める。

ゆっくりと身体を揺らせると、野原の草花たちが風にそよぎ始める。

草花たちの動きが止まると、身体の揺れが止まる。

草花と身体が一つになったように、共感し共鳴する。

音楽がフェイドアウトし、静かに目を開けると照明を落としたスタジオに多くの仲間が見える。

 

小さな円をつくりゆっくりと身体を左右に動かす。

波が海に伝わるように、人の温もりと存在が伝わり心地よく身体が揺れる。

意識が波に溶け始めて海になり、一つの大きな世界に抱かれているような感覚を覚える。

私は自分の事を「波の滴だ」と思うこと事がある。

自分の人生は、海を離れた波の滴で、また海に戻るのだ。

私は海の一部だけれど、海もまた、私の一部なのだと。

海に溶け、また滴に戻り、また波に溶ける。

目を閉じると、この小さな閉じた円が無限の拡がりをもつ海のように感じられる。

やがて、このワークが終了し私たちは別れていく。

今回のビオダンサのテーマは「出会いと別れ」だった。

別れと出会いを繰り返しながら、私たちは大きな海へと戻っていく。

今日のビオダンサでは、そのことをリアルに感じる事ができた。

 

ビオダンサで出会えた人たちに感謝します。

みんなの愛を感じます。そして愛しています。

いつもありがとう。