ペルトを想う

アルボ・ペルトと出会えたことは自分の人生で大きな意味を持つ。

私がこのエストニア出身の現代音楽家から与えられた感性と霊感は、祈りという言葉と共に深く心身に沁みていった。

静謐で深淵、祈りと慈しみに満ちたペルトの音が私を満たすとき、私は深く静かに自己の内面に降下する。誤解を恐れずに書けば、遥かな高みに降下するというイメージに近い。

2000年に発売された「アリーナ」というCDは、今までとは少し違うトーンを持ちながら、その完成度は高い。

静謐という言葉ではなく、「静けさ」という言葉がふさわしい。

一音一音が丁寧に表現され、場を静けさで満たしていく。

器に喩えれば、白磁より青磁の味わいに極めて近い。

ペルト: アリーナ

妙好人

ある方と「嘆異抄」の話をしていて、別れてから「妙好人」のお話をし忘れていた事に気づいた。

「妙好」とは、「白蓮華」を意味する言葉で、泥の中から美しい華を咲かせる蓮に例えて、清らかで美しい信心をもつ信徒を「妙好人」と呼ぶ。

浄土真宗の教えをとことん突き詰め、禅の言葉でいえば「悟り」を開いた人達の事である。

浄土真宗の信心世界の到達点であり、具現者である。

妙好人の記録は、江戸後期から明治に多く、職業も農民から船大工など一在家信徒である。

彼らの残した言葉は深く、もし機会があれば是非触れて頂きたいと思う。

何も修行をした出家や禅僧が悟るのではなく、本当の信仰の境地は、市井の人々によって具現されたことが「妙好人」を通じて知ることが出来る。

文字を読むことの出来ない百姓が、他力の信仰を深めていく過程で、素晴らしい境地に至る。これはどんな出家も学者が容易に至れる世界では無い。

最近相田みつおさんが脚光を浴び、よく似た言葉や書を目にする機会があるが、日本には、名も無き市井に優れた信仰者を生み出した歴史がある。

彼らの残した言葉は、どこまでも深くそして潔い。彼らは名もない人生をただ愚直に生きたに過ぎない。「愚直」今の私から最も遠い生き方のような気がする。

このときから私たちは諦め始めた

運転中、AMラジオから映画「いちご白書」のテーマソング「サークルゲーム」が流れてきた。

バフィ・セント・メリーの歌声が切ない。

映画は、1986年のコロンビアの大学紛争が舞台だ。

大学紛争に少し乗り遅れた世代としては、小学校の時のテレビニュースでしか記憶に無いのだが、何故か切ない。
この時代を境に、私たちは何か大切なものを諦める習慣が身についたのかもしれない。
もっとも大切なものを諦め、その次に大切なものを求めだしたような気がする。

それにしてもバフィ・セント・メリーの歌声が切ない。この切なさは、私の好きなジョーン・バエズの歌声に似ている。

私はある時期、毎日のようにジョーン・バエズの歌声を聞いていた。バエズの声には「意志の力」がある。きっちりとしたメッセージをきっちりと伝えようとする思いの強さを感じる。

人々が世界を正そうとした、ほんのつかの間の時代、その時代の気分を歌声で表現したのがジョーン・バエズかもしれない。

久しく聞いていないので、amazonで調べてみると、もうほとんど手に入らなく成っている。

一度休みの日に、ゆっくりと聞いてみよう。時代の気分を思い出して。

そして、私たちが何を諦めたのかを考えながら。

ジョーン・バエズ