仕事の合間にCDをレンタルしに出かけた。
目的は、八代亜紀さんの「舟歌」。
映画「駅STATION」で、高倉健と賠償智恵子が二人でこの曲を聴くシーンが忘れがたくて、衝動的に聞きたくなったから。この映画の居酒屋のシーンほど心に切なく沁みる場面をあまり経験したことがない。
日本人であること、昭和を生きたこと、老いに向かっていることなど、刹那に人生を振り返ってしまう。
もう一つは、ケイコ・リーのあまり上手くは無いが、なぜか愛着の湧くボーカルを聞いてみたくなった。
この方の音楽は、最初つまらない感じがするが、聞き込むとゆっくりと好きになる不思議な魅力がある。
そして前衛的といわれている菊池成孔の「南米のエリザベス・テイラー」を借りた。
内容はまずまずで、前衛であろうとするが、時代がすでに前衛を凌駕しているが故に、前衛であることが出来ない歯がゆさがある。
このCDを聞いて、前衛という言葉がすでに死語であることを感じた。
前衛が時代の先端であったときに青春を過ごすことが出来た幸せを思った。
うん! 前衛と評価されたとたんに古典になる陳腐。
先だの後だのに引っかかってると落ちる落とし穴ですね。
コメントありがとう。
私たちはいつも「多様性の意識の海」に自己を見いだすことを忘れてはならない。
他のブログのコメントにこの言葉を書いたのですが、私達は前衛である必要は何も無いのです。しかし多様である必要は感じます。