春と知る

信号待ちの車の窓から、何げなく道ばたの草を眺めていた。

黄色い花が咲いていて、その上を白いものが二つ飛び交っている。

何が飛んでいるのかが思い出せない。

頭が少ししびれたようになった後、チョウチョだと解った。

そして、次に「なぜチョウチョが」という疑問がわいた。

あっ、そうか、「春だからチョウチョが飛んでいるのか」と納得して、

あ、春が来たのだと実感した。

納得すると同時に軽いめまいを覚えた。

春なんてとっくに来ていたのだ。

車を走らせながら、桜の花を撮影に出かけ、木蓮に感動したことを思い出した。

あのときは、春では無かったのか、いや間違いなく春だろう。

では、なぜ今春を知ったのだろう。

桜を見ているときに、吉野山を歩いているときに、なぜ春を実感出来なかったのだろう。

 

山村で暮らしていた時には、春が来たと、今日から春なのだと実感できる日があった。

とても嬉しくて、身体が軽くなり、そわそわし始める。

そんな日は、近所の人たちもうろうろとしていて、どこか楽しそうだ。

そしてその後数日してから、こぶしが白く輝き、桜が咲き始めるのだ。

 

最近は、季節を心身全体で受け止めることが出来なくなっているのかもしれない。

頭を使い過ぎているのだろう。

身体の季節と頭の季節がばらばらになってしまっている。

最近の不調の原因もこれかもしれない。

写真が面白くない原因も少し解った。

さぁ、どうしましょうと思案しながら、考えないことが一番なのかもしれないと思ったりもした。

久しぶりにカメラを持って犬の散歩に出かけた。

 

熊野へ 天女座へ

熊野天女座へ友人のあかるさんを送り届ける目的で、小雨の吉野を出発。

途中、思い出の地へ。ここは十津川の端っこで、私の大切な友人が住んでいた場所。

写真の吊り橋を渡り、里道を行くと友人が自分で建てた家がある。何度も何度も訪れた場所。

雨に煙る吊り橋を見ていると、若い頃のことや出来事、楽しかったこと、切なかったこと、哀しかったことなど、到底書き尽くせない思い出が溢れてくる。

友人は亡くなったけれど、彼がとても大切にしていた人は今は大切な友人で、その友人を通じて知り合いになった人たちがいる。

途中立ち寄った「熊野出会いの里」もその友人の紹介で、私にとって大切な場所になっている。
とても不思議な人のえにしを感じる。

土砂降りの中を熊野市波田須へ向う。道の端々に名残の桜が雨に打たれとても美しい。

夕暮れ間際に到着した熊野の海は荒れ模様で、波がうねり、響いていた。

翌日は、快晴。

天女座のシンセサイザー奏者の紫帆さんが即興で1923年スタインウェイを演奏してくれた。

紫帆さんの指が動き始めると、ピアノから光の粒が飛び立ち始める。

音が光となり、光が音となり、遠ざかり、また近づき、重なり合い、解け合い、消えては現れる。

私は、初めてピアノのという楽器を経験した。

何という高音の美しさ。重なり合う音達の粒。

紫帆さんの指は、魔法使いの杖のように、さっと動くだけで美しい光と音を生み出していく。

写真は、天女座の屋上で海を眺める、天女座のとんちゃんとあかるさん

 

また、新しい出会いがありました。みなさんとても楽しい時間をありがとう。

写真は天女座の階段付近。詳しくは天女座のホームページをご覧下さい。

心を十分に動かす

世阿弥の言葉に「心を十分に動かせ、身を七分に動かす」というのある。

難しくは、「動十分心、動七分身」と書くようだ。

心は十分に動かし、身体を七分に動かすと余韻のある、含みのある表現になることは、何となく理解出来る。

心のこもっていない大げさな演技ではなく、こころのこもった抑えた演技に感動することが多い。

これを写真に当てはめてみると、納得できることが幾つかある。

写真を撮るときに私が大切にしていることは、十分に心を動かすことである。

そして、それをカメラを使い、撮影し表現する。

しかし、不調になると、撮影のテクニックを使い、写真を撮るようになる。

そして、それを自分の表現だと勘違いする。

技術は、心を伝える道具なのに、その事を忘れてしまう。

 

写真が撮れなくても、心は十分に動かす。

もし心が動かないなら、写真を撮らない。

この大切なことをついつい忘れてしまう。

 

「心を十分に動かせ、身を七分に動かす」

古典から習うことが多いけれど、この言葉も身に沁みる良い言葉だ。