心を十分に動かす

世阿弥の言葉に「心を十分に動かせ、身を七分に動かす」というのある。

難しくは、「動十分心、動七分身」と書くようだ。

心は十分に動かし、身体を七分に動かすと余韻のある、含みのある表現になることは、何となく理解出来る。

心のこもっていない大げさな演技ではなく、こころのこもった抑えた演技に感動することが多い。

これを写真に当てはめてみると、納得できることが幾つかある。

写真を撮るときに私が大切にしていることは、十分に心を動かすことである。

そして、それをカメラを使い、撮影し表現する。

しかし、不調になると、撮影のテクニックを使い、写真を撮るようになる。

そして、それを自分の表現だと勘違いする。

技術は、心を伝える道具なのに、その事を忘れてしまう。

 

写真が撮れなくても、心は十分に動かす。

もし心が動かないなら、写真を撮らない。

この大切なことをついつい忘れてしまう。

 

「心を十分に動かせ、身を七分に動かす」

古典から習うことが多いけれど、この言葉も身に沁みる良い言葉だ。

 

 

花を見つけに

この数日、時間を空けて花を見に行くことが多い。

ゆっくりと花を見ていると、疲れた自分と出会う。

花との距離を感じながら、写真を写す。

この震災で何かが、自分の中の何かが変ったような気がする。

それが何かはまだ解らないのだけど、

その変った自分を持てあまして、疲れているのもしれない。

 

ハクモクレンに光がたゆたい美しい。

光と自分の間に少しの距離があって、

それを取り去ることができない。

感覚が閉ざされているのを感じる。

でも花を見るのは楽しい。

今はそれで十分なような気もする。

この震災で傷つかなかった人はいないのだから。

 

再びの桜

友人と訪れたお寺に、今日もう一度桜を見に出かけた。

一昨日は、友人と会えた嬉しさと、満開の花、夕方の光で、何もかもが輝いて見えた。

気分が高揚していて、桜に映える光だけを感じていた。

 

今日は雨上がりの曇り空で、薄暗く、心なしか花々が寛いでいるような気がした。

人気のない境内をゆっくりと歩く。

ただ桜は散る。

ただ桜は咲く。

静けさという音に包まれて写真を撮った。