間にあるもの

都会と田舎の間には何があるのだろうかとフッと思う。

海と陸との間には何があるのだろうかと考えてみる。

右手と左手の間には何があるのだろうか。

喜びと苦しみの間には何があるのだろうか。

笑顔と泣き顔の間には何があるのだろう。

きっと答えは、「今」なのだろう。

今あること以外には何もない。

では、どのようにすれば「今在ること」を感じることができるのだろう。

それは、「手放すこと」

解ってはいるけれど、手放すことはいつも苦しい。

写真は、東吉野村宝蔵寺のしだれ桜

桜は咲き続けることが出来ない。だから一際美しい。

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自転車に乗って

 慌ただしいままに日を送っていると、気が付けばもう五月。

新緑が芽吹き、山々は精気に溢れている。

数十年前なら自転車で峠越えのプランを練っていたかもしれない。

 昔の自転車を引っ張り出してきた。

グリスやオイル切れ、ゴム系統の交換などですぐに乗ることは難しそうだ。

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また自転車に乗って旅をしてみたいと思った。

峠の頂上で、水筒からお茶を飲む自分を想像してみた。

汗ばんだ背中を吹き抜ける心地よい風。あの木の下で昼食にしよう。

おにぎりを二つほど食べれば、後は少し昼寝をしよう。

急ぐ旅ではないのだからと自分に言い聞かせる。

今度自転車で小さな峠を登ってみよう。

しかし、すぐには行けそうにないから、今日は、自転車を掃除しよう。数十年の錆を落とそう。

自転車のことを考えているとフッと萩原朔太郎の詩が思い出した。

五月は人を旅人にするようだ。

 旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

桜花源記

陶淵明の「桃花源記」は、380年頃の話しで、理想の生活、理想の土地を美しい言葉で表現している。

彼の地では、争いがなく、差別がなく、動物たちは仲良く、貧しいが豊かな生活を送っている。

もちろんフィクションで、陶淵明の理想の土地だったのだろう。

吉野の山々も、4月になると花々に彩られ、ふもとの里は、一時「桃花源記」の様相を表す。

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写真の道路は二つに分かれている。

どちらに行けば桃源郷があるのか?
どこまで行けば桃源郷はあるのか?

飲酒二十首で陶淵明は答える。

心遠ければ地、自ずから偏なり」

心が世間や喧噪から遠く離れていれば、私の住みかは、自然に辺鄙な場所に変わるのだと。

まず心の桃源郷を求めよと、陶淵明は教えてくれる。

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