表現を通じて宇宙と出会いたいという思いがあるならば、その行為は孤独でなければならない。
それは、写真においても同じ事である。
その孤独を森有正は、「根源的孤独」という言葉で表現した。
「感覚はすべての思想、すべての作品の根源であって、独立していなければならぬ。
それが孤独ということの本当の意味である。
それ以外の孤独は感傷である。」
数十年を経て、やっとこの森有正の言葉の重みに気づく。
孤独とは「個」であることだと思う。
自己が個へと高まるとき、私は宇宙と出会い、そして繋がる。
この「根源的孤独」から得られる感覚は、表現となり、やがては多くの人の感覚や心に訴求するものになる。
ときどき、理由もなく、とてつもない孤独感に襲われます。
宇宙かどうかはわからないけど、降ってくるというか、湧き上がってくる何か得体のしれないものを表現しようとするとき、そこにはやはり産みの苦しみというか、格闘というか、言葉にできない戦いが生じます。
そのやむにやまれぬ感情が何なのかはわかりません。
まだ未熟なのかもしれませんが。
森有正の「根源的孤独」
しげさんの「孤独は個」
みとさんの「理由なき孤独」
のぶさんの「雑踏の孤独」
もうみんなあっちいってよ、
ぼくもたまには独りになりたいよ。
EVAのぶさんでした
みと様こんにちは。コメントありがとう。
孤独でないニーチェ、孤独でないピカソを私は想像することが出来ません。孤独な魂が表現を獲得するとき、世界を感動させるのだと思います。
のぶさんコメントありがとう。
のぶさんは、十分独りだと思いますよ。孤独ではないけれど。
真ん中の写真。
タルコフスキーの 鏡 の1シーンを思い出しました。
感覚 なのか、 表現 なのか、
難しいところです。
感覚 を甘やかすとつい 表現 に走ってしまいます。
ギリギリのところで踏ん張っているようで、
この写真、私は好きです。
感覚を甘やかすと表現になる。
厳しい言葉ですね。
しかしそのことは、いつも忘れずにいます。