夏の気配

投げつけられたような光に、夏の昼下がりを感じるとき

蝉の声が熱に溶けて、気配が身体を覆う。

緻密さを欠く、もののありように

身体に覆い被さる熱が蜉蝣のように蒸発する。

一本の道を前に、目が感じる気配を捉える。

風景と自分との距離は微妙に変化し、招き寄せ、遠ざかる。

気配が最も濃厚になる場所に身体をシフトさせる。

この気配を演出する空間がすべて満たされる場所へ。

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“夏の気配” への4件の返信

  1. 想うに、
    気配の質を高めていく。
    雑味や甘さを切り詰めて、
    ぎりぎりに追い込んでいく。
    ・・とどうなるのか?
    怖い。

  2. 気配は、言語化されることのない感覚。
    身体と精神に保留される。

    気配の質を高めるためには、純粋に自分とだけ向きあい続ける力がいる。
    そしてそのときに自己を超越する。かな?

    対象的思惟から即自的思惟へ
    対象から即自へと写真は向かう

  3. 「対象的思惟から即自的思惟へ
    対象から即自へと写真は向かう。」
    ・・・なるほど。

  4. 夢のなかのような‥
    というのは私だけではないようですね。

    鈴城将文さん風に語るなら、「この時、写真は現実の代理ではなく、現実はついに写真の代理へと逆転する。」

    この二股に岐れた道の写真は、夢はもちろん映画の印象的な情景を見ている様な清々しい、けれども「何か」を探りたいような気持ちにさせます。

    別の捉え方をすれば、未だ誰も訪れたことのない見つめる者だけにだけ開かされ名付けることができる、写真のなかの風景。

    ‘二股’とは単純ですが、誰もが名付けたくなるような、この場所の名前です。

    私は右を択ぶほど、冒険心はなく、道路表示が印象的に影で隠され道の良い、樹木に寄り添うような左を択びます。

    後ろの風景の森や空や雲も真空の音がして、空間を広げるかのようです。

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