蝉の声が弱々しい。
8月1日の太陽は隠れて、遠くの青空と雨を含んだ雲が交互に窓をかすめていく。
こんな日は仕事をしながら、気持ちは彼方へと逸れていく。
明るさへ、静けさへ、身体へ、山之口獏へと。
獏さんの「座布団」という詩を思い出している。
「座布団」 山之口獏
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座布団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
この詩は、友人がくれた高田渡の歌で知った。
「楽に座ったさびしさ」
この言葉を知って、語らなくなった言葉が増えた。
なんとなく、「異邦人」という言葉が浮かびました。心が宙を舞う心地よさと寂しさと。
大地にしっかりと根を下ろして生きている逞しい人たちが眩しくて、あのようになりたいと切望する故郷亡き民の心境。
そうですね。日本という国では、沖縄生まれの山之口獏は、異邦人だったのかもしれません。
しかし、沖縄の心に根を下ろし人でした。
大阪から引っ越しを重ねて吉野にたどり着いた私には、故郷亡き民の心境にシンパシーを感じます。
混乱しています。
2枚の写真にnobuはいません。
写っている物がストレートに入ってきます。
特に上の写真は対象に畏敬の念を持って
撮影したような、何を見ているのか、何を
感じているのか、ヒジョーに胸騒ぎしています。
できるだけ自分が消える。
これが私の中では最高の表現です。
朝に撮影する写真は、どこかに祈りの気持ちがあります。