2冊の本 クリシュナジとシッタカブッタ

理解しようと思っても理解出来ない本や教えはたくさんある。

 門前まで行きながら、扉を叩きながら開かれない思想がある。

クリシュナムルティもその一人で、今まで何冊の本を買い、挫折してしてきたことか。

本棚を整理していて、ふっと手にした「自己の変容」は以前ほど私を排斥しない。

注意深く読んでいくと端々に思い当たることがある。

しかしこの本の内容、どこかで読んだことがある。

そうか、私の愛読書「シッタカブッタ」に書いてある内容と同じだ。

特に「ブッタとシッタカブッタ 3 なぁんでもないよ」に書かれていることとよく似ている。

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クリシュナムルティの難解な言葉を漫画にするとこうなるのか!

「自分を変えるためにほんとうに必要なことは何か」と「自己の変容」の帯に書かれている。

「なぁんでもないよ」と「ブッタとシッタカブッタ 3」の表紙に書かれている。

本の内容や質が自分を変えるわけでもない。

どう読むか。何を知るか。

考え込む前に、

そうか、お茶でも飲もう。

間にあるもの

都会と田舎の間には何があるのだろうかとフッと思う。

海と陸との間には何があるのだろうかと考えてみる。

右手と左手の間には何があるのだろうか。

喜びと苦しみの間には何があるのだろうか。

笑顔と泣き顔の間には何があるのだろう。

きっと答えは、「今」なのだろう。

今あること以外には何もない。

では、どのようにすれば「今在ること」を感じることができるのだろう。

それは、「手放すこと」

解ってはいるけれど、手放すことはいつも苦しい。

写真は、東吉野村宝蔵寺のしだれ桜

桜は咲き続けることが出来ない。だから一際美しい。

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自転車に乗って

 慌ただしいままに日を送っていると、気が付けばもう五月。

新緑が芽吹き、山々は精気に溢れている。

数十年前なら自転車で峠越えのプランを練っていたかもしれない。

 昔の自転車を引っ張り出してきた。

グリスやオイル切れ、ゴム系統の交換などですぐに乗ることは難しそうだ。

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また自転車に乗って旅をしてみたいと思った。

峠の頂上で、水筒からお茶を飲む自分を想像してみた。

汗ばんだ背中を吹き抜ける心地よい風。あの木の下で昼食にしよう。

おにぎりを二つほど食べれば、後は少し昼寝をしよう。

急ぐ旅ではないのだからと自分に言い聞かせる。

今度自転車で小さな峠を登ってみよう。

しかし、すぐには行けそうにないから、今日は、自転車を掃除しよう。数十年の錆を落とそう。

自転車のことを考えているとフッと萩原朔太郎の詩が思い出した。

五月は人を旅人にするようだ。

 旅上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。