妙好人

ある方と「嘆異抄」の話をしていて、別れてから「妙好人」のお話をし忘れていた事に気づいた。

「妙好」とは、「白蓮華」を意味する言葉で、泥の中から美しい華を咲かせる蓮に例えて、清らかで美しい信心をもつ信徒を「妙好人」と呼ぶ。

浄土真宗の教えをとことん突き詰め、禅の言葉でいえば「悟り」を開いた人達の事である。

浄土真宗の信心世界の到達点であり、具現者である。

妙好人の記録は、江戸後期から明治に多く、職業も農民から船大工など一在家信徒である。

彼らの残した言葉は深く、もし機会があれば是非触れて頂きたいと思う。

何も修行をした出家や禅僧が悟るのではなく、本当の信仰の境地は、市井の人々によって具現されたことが「妙好人」を通じて知ることが出来る。

文字を読むことの出来ない百姓が、他力の信仰を深めていく過程で、素晴らしい境地に至る。これはどんな出家も学者が容易に至れる世界では無い。

最近相田みつおさんが脚光を浴び、よく似た言葉や書を目にする機会があるが、日本には、名も無き市井に優れた信仰者を生み出した歴史がある。

彼らの残した言葉は、どこまでも深くそして潔い。彼らは名もない人生をただ愚直に生きたに過ぎない。「愚直」今の私から最も遠い生き方のような気がする。

このときから私たちは諦め始めた

運転中、AMラジオから映画「いちご白書」のテーマソング「サークルゲーム」が流れてきた。

バフィ・セント・メリーの歌声が切ない。

映画は、1986年のコロンビアの大学紛争が舞台だ。

大学紛争に少し乗り遅れた世代としては、小学校の時のテレビニュースでしか記憶に無いのだが、何故か切ない。
この時代を境に、私たちは何か大切なものを諦める習慣が身についたのかもしれない。
もっとも大切なものを諦め、その次に大切なものを求めだしたような気がする。

それにしてもバフィ・セント・メリーの歌声が切ない。この切なさは、私の好きなジョーン・バエズの歌声に似ている。

私はある時期、毎日のようにジョーン・バエズの歌声を聞いていた。バエズの声には「意志の力」がある。きっちりとしたメッセージをきっちりと伝えようとする思いの強さを感じる。

人々が世界を正そうとした、ほんのつかの間の時代、その時代の気分を歌声で表現したのがジョーン・バエズかもしれない。

久しく聞いていないので、amazonで調べてみると、もうほとんど手に入らなく成っている。

一度休みの日に、ゆっくりと聞いてみよう。時代の気分を思い出して。

そして、私たちが何を諦めたのかを考えながら。

ジョーン・バエズ

傷の経過

サランラップで「傷口を包んで直す」ということの経過報告です。

転んだのは、2月27日火曜日の朝、今日は3月1日木曜日で、記事を書いている時間が23:57分。
もう少しで3月2日です。

傷にはじゅくじゅくとした白い液体が染み出ていて、本来なら消毒したくなるところをグッとこらえて、サランラップを巻いていました。これは傷を乾燥ささないためです。そしてこの白いじゅくっとした液体が傷口を早く治してくれるのです。

先ほどお風呂に入ったのですが、傷が沁みることもありませんでした。治りは早く瘡蓋にも成らないようです。

擦り傷には、消毒という思い込みを捨てることで早く綺麗に直すことが出来そうです。

どんなことにも「思い込まない」ことは大切で、もう一度根拠もなく信じていることを検証してみる必要がありそうです。