啐啄同機

言葉を人に伝えることは出来るけれど、気づきを与えることは難しい。

禅の言葉かどうかを忘れてしまったけれど「啐啄同機(そったくどうき)という言葉がある。

ひな鳥が卵の殻を破って外に出ようとするとき、親鳥が同時に殻をつつく。

自分の力だけでは殻は破れない、親鳥の思いだけでも、殻は破れない。

出たい思いと、出したい思いが重なった時に、殻は破れる。

そのような意味だと思う。

禅では、師と弟子の関係は絶対である。

師が弟子を見続け、弟子が厳しい修行を重ねて、同じ時を過ごす。

時期が来たと判断したときに、お互いの思いの重なりとして、悟りが開かれる。

多くの人が、折々に私の殻を破ろうとして、外から突いてくれているのだろうなと思う。

だが、殻が厚すぎるのか、中まで音が聞こえないのだろう。

まず、殻を薄くすることが必要かもしれない。

しかし親が突かなくても、孵る卵はある。

カエルが卵を突いているのを見たことがない。

は虫類や両生類の卵は、きっと殻が柔らかいのだ。

時期が来れば自力で出てくるから。

殻を破ろうとするより、殻を柔らかくする方が少し楽かな。

これならあまり人に迷惑をかけないし。

鳥式よりも、は虫類式の方が自分に合っているような気がする。

私が気づくその前に

なぜかと問う前に、カメラを向けてシャッターを切る。

パソコンのディスプレイに向かい、なぜかとまた問う。

この5枚の写真を見ながら「私は自由ではない」とつぶやく。

違うと頭を振りながら、意識は沈黙する。

何を知りたくて写真を撮るのか。

何かを手放したくて写真をとるのか。

自分を求めなくなる日が来ることを、どこかで望んでいる。

 

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合歓の花

天川への道すがら、丹生川上神社下社を過ぎたところに合歓の花が咲いていた。

この季節、雨の中で合歓の花を見ると決まって芭蕉の奥の細道を思い出す。

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくわへて、地勢魂をなやますに似たり

の文章に次の句が続く。

「象潟や雨に西施がねぶの花」

西施という絶世の美女に象潟を重ねて、梅雨に咲く合歓の花を匠に句にしている。

しかしどのような景色を見れば「寂しさに悲しみをくわへて、」という言葉が出てくるのだろう。

合歓の花に西施の面影を感じて、そこから想像が広がったのだろうか。

天才俳人の恐ろしいまでの想像力を感じる。

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