蜻蛉の滝

川上村で講習の打ち合わせがあり、今年も夏の3ヶ月間、パソコン講習が開催されることになった。

打ち合わせの帰りに、少し早いとは思いながら蜻蛉の滝を訪れた。

歴史に有名な蜻蛉の滝は、公園のようになっていて、枝垂れ桜や様々な桜が植えられている。

ここ数日の冷え込みで開花は遅れるだろう。

 この時期、在原業平の

「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」

を思いだし、今も昔も春を待つ人の心に変わりはないのだなと感慨に耽ってしまう。

写真は、蜻蛉の滝にある桜の木。つぼみはつぼみでまた美しい。

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里の家

私は大阪で生まれ育ったので、花木に囲まれたふるさとを持たない.

大阪の下町の狭い路地を抜けている夢を見ることがある。
いつもの道を歩いていると小さな小川が流れ、岸に黄色い花の咲く優しい風景に出会う。
よく知っているようで、知らない、既視感のある風景だ。

実際には眼にしたことのない風景かもしれないし、早春に東北を旅したときの風景かもしれない。

この夢を見るとき、私は小学生の格好をいていることが多い。
もしかしたら私の原風景かもしれない。

カメラを持って歩いていると、ふっと懐かしいと感じる景色に出会う。

私は住んでいたこともない景色を懐かしいと感じ、シャッターを押す。

 陶淵明の「桃花源記」が好きで、この話を読むたびに、一度桃源郷を訪れてみたいと思う。

人はその心の深部に、それぞれの桃源郷を持っているのだろう。

それが時々夢の姿を借りて、少し荒んだ現実を慰めに現れてくれるのかもしれない。

花の家

一陽来復

日が長くなり、犬の散歩も暖かく、たそがれ時に歩くと、景色も変わってまた楽しい。

小さな公園の桜がちらほらと咲きかけていた。冬に力を蓄えた桜の蕾は、どことなく力強く、内側からエネルギーを発散させている感じがした。

易経に一陽来復ということばがあるが、「冬が終わって春になる意や、逆境・不運など よくない事が続いた後 ようやく幸運が向いて来る意にも用いられる」という意味のようだ。

夕暮れに桜の花を見ていると、なぜか優しい気持ちになれる。楽しいことが起こりそうな気がする。いつもより薄着で過ごせる嬉しさかもしれない。

一陽来復、桜の蕾を見ていてこの言葉を思い出した。

公園の桜