クリシュナムルティの生と死

クリシュナムルティの書籍と出会って、もう20年以上が経とうしている。

昨春あることがきっかけで、クリシュナムルティの言葉が少し理解できるようになり、心に染みいるようになった。

難解ではなく、しかし理解の難しい文章。いま思えばなんと丁寧に書かれていることか。

そのクリシュナムルティの伝記。以前に三部作で出版されていたものを、作者自ら一冊にまとめた労作。

クリシュナムルティの生い立ち、人格・思想の形成がよく分かる。

上質のハードボイルドのような面白さ。

ある程度クリシュナムルティの書物を読み込んだ方に是非お薦めの一冊です。

二人の友人に

私の写真を見てくれてありがとう。特に携帯で見てくれているラピスさんには感謝します。

二人のコメントに対する返信と、写真に対する思いを書きます。

私は写真を自分の感性を広げる、自分の知らない自分の感覚を発掘する道具として、使ってきました。

この1年間は、心の琴線に微かに触れる感覚を大切に、まず感情を豊かに満たす光景と出会うことを楽しみに、写真を撮ってきました。

それが「光の庭」や「白い朝」の写真です。

私はこの撮影を通じて、私の新しい感性と数多く出会うことができました。光と出会い、風を感じ、霧の日には浮遊する水滴に身体を包まれながら撮影しました。同じ場所でありながら、いつも違う感覚を与えてくれました。
私はこれらの被写体に自分の心をそっと置いて撮影しました。

「モノクロームモノローグ」の写真の数点は二人とも知っているもので、私の作業の歴史とその時点での到達点です。
私はこの撮影で、透明で深遠な魂をイメージしていました。ローライとハッセルを使いモノクロームのフィルムで撮影された写真は、はやり表現に厚みがあり、私にとって好ましいものです。しかし今現在の状況でこの作業を続けることは難しく(年齢的にも)、やはり、デジタルカメラでの撮影になります。
後半の数点は、デジタルカメラでの作業で、少し厚みを欠いたモノクロームの表現と成っています。

その場から受けた感覚を明確にするために、ゆっくりと自分の感覚と対峙し、その場を獲得するために撮影することもあります。その写真の多くは消え去るのですが、ごくたまに獲得されることがあるのです。
それが「路地のある町」にある「ペプシの看板」のある写真です。

私は撮影の時点で、この場を強く意識しています。雑然とした光景を捉え、距離を変え、パースを考え行きつ戻りつした撮影です。

この写真はまず全体を見なければ、細部を知ることはできません。
この写真が私の「自我」というなら、尚のこと、全体を知らなければ成らないのです。
そしてこの写真は「経験の成り行き」ではなくて、「経験の獲得」なのです。

この写真は緻密です。少し意識が逸れると、その瞬間に見失ってしまう感覚を、どうにか繋ぎとめて撮影しました。前景の自転車と背景のビルとの距離、重なりなど、ファインダーを見、検証しながらの撮影でした。ある意味で疲れる撮影でした。

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私は、写真が自分の感性を豊かにしてくれる道具として使いたいと思っています。

新しい感性の出会いの道具として使いたいのです。
だから一度獲得した表現を「手放し」ながらの作業となるのです。
自分が多様であるための唯一の方法だと思っています。

自分とは何かと言葉に出す代わりに、シャッターを切るのです。

それでは、また

いつも同時に生まれる

何かを美しいと感じるとき、何と比べているのだろう。

出来事を必然と感じるとき、何が偶然なのだろう。

いつも同時に生まれる。

「これ良いですね」というとき私は、何と比べているのだろう。

「良い経験」と「良くない経験」 どう違うのだろうか。

意味のあることと、意味のないことはどこが違うのだろうか。

いつも同時に生まれる。

何かを感じるとき、いつもそれを否定する感情が同時に生まれる。

私はその事に気づいていなかった。