二人の友人に

私の写真を見てくれてありがとう。特に携帯で見てくれているラピスさんには感謝します。

二人のコメントに対する返信と、写真に対する思いを書きます。

私は写真を自分の感性を広げる、自分の知らない自分の感覚を発掘する道具として、使ってきました。

この1年間は、心の琴線に微かに触れる感覚を大切に、まず感情を豊かに満たす光景と出会うことを楽しみに、写真を撮ってきました。

それが「光の庭」や「白い朝」の写真です。

私はこの撮影を通じて、私の新しい感性と数多く出会うことができました。光と出会い、風を感じ、霧の日には浮遊する水滴に身体を包まれながら撮影しました。同じ場所でありながら、いつも違う感覚を与えてくれました。
私はこれらの被写体に自分の心をそっと置いて撮影しました。

「モノクロームモノローグ」の写真の数点は二人とも知っているもので、私の作業の歴史とその時点での到達点です。
私はこの撮影で、透明で深遠な魂をイメージしていました。ローライとハッセルを使いモノクロームのフィルムで撮影された写真は、はやり表現に厚みがあり、私にとって好ましいものです。しかし今現在の状況でこの作業を続けることは難しく(年齢的にも)、やはり、デジタルカメラでの撮影になります。
後半の数点は、デジタルカメラでの作業で、少し厚みを欠いたモノクロームの表現と成っています。

その場から受けた感覚を明確にするために、ゆっくりと自分の感覚と対峙し、その場を獲得するために撮影することもあります。その写真の多くは消え去るのですが、ごくたまに獲得されることがあるのです。
それが「路地のある町」にある「ペプシの看板」のある写真です。

私は撮影の時点で、この場を強く意識しています。雑然とした光景を捉え、距離を変え、パースを考え行きつ戻りつした撮影です。

この写真はまず全体を見なければ、細部を知ることはできません。
この写真が私の「自我」というなら、尚のこと、全体を知らなければ成らないのです。
そしてこの写真は「経験の成り行き」ではなくて、「経験の獲得」なのです。

この写真は緻密です。少し意識が逸れると、その瞬間に見失ってしまう感覚を、どうにか繋ぎとめて撮影しました。前景の自転車と背景のビルとの距離、重なりなど、ファインダーを見、検証しながらの撮影でした。ある意味で疲れる撮影でした。

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私は、写真が自分の感性を豊かにしてくれる道具として使いたいと思っています。

新しい感性の出会いの道具として使いたいのです。
だから一度獲得した表現を「手放し」ながらの作業となるのです。
自分が多様であるための唯一の方法だと思っています。

自分とは何かと言葉に出す代わりに、シャッターを切るのです。

それでは、また

“二人の友人に” への6件の返信

  1. コメントをどうぞ                

    nobuさんのプログには、他人ですから不満もあります。
    モノクロームモノクロームの点数が多くて、私には全体の印象が少し散漫になるようです。

    それから、美山でしたでしょうか‥あの稿拭きの民家・大阪の下町、コンクリートの堤防に囲まれた河の曲がり角の民家、などがありません(見落としていたらすみません)。
    落っこちていたら、ひっつけてもらいたいです。

    でも、このnobuさんのプログには、開示性があります。

    私はアナログ人間ですから偉そうな事はいえません。更に、このプログには軽くは、対応できない知性・感性が散りばめられているので、簡単にコメントしようとしたら、少し考えて込んでしまいます。
    時間が必要かもしれないのです。
    でも、開かれているので、ゆっくり対応しようと思います。

    但し、主人は今、吉野でのゆっくりした時間のなか、外のアクトに、自身の内のアクトに言葉が彷徨いでるのを抑制しているかのようです。

    いや、私のように都市でせわしく働くものには、
    逆に速度が早いのです。
    ここはゆっくりついていくほかないようです。

    一枚の写真が提示されました。

    私は携帯から見ているのですが、ただ一枚だと思うのですが、少ししか開いてくれない写真がありました。吉野ではありません。

    斜めに見える建物のサッシのような壁面に強い日差しがあたり、少しその強さに抵抗感を持ちました。
    でもどこかで感じた感覚を無意識はよい意味での穏喩として残していました。

    その部分しか見えなかった写真でした。

     つづきはまたゆっくり。

  2. コメントをどうぞ                

    つづきです。

    実はその後、携帯をいじっていると、一度正方形ぐらいまでは開いてくれました。
    でも、さらに縦長なのでしょうか‥

    そしてそれは、ゆっくりあとで見直そうと、保留していたnobuさんの育った下町の一枚でした。

    私が慕っている黒沼康一さんが問題にするアッジェの「パリ」と高梨豊さんの「町」の系譜、

    でも、私が近しいと思ったのは、鈴城雅文さんの『写真=その「肯定性」の方位』に掲載されている春日昌昭の‘ふたば’という飲み屋(食堂)がある写真‥
    金村修にも影響を与えた、早死にが何とも惜しい写真家の写真です。

    さらに言えば、同じ本に
    掲載されている武田花さんの写真。
    「眠そうな町」は生憎今だに手に入れられないでいるのですが、猫シリーズは三冊も持っています。
    ここでは鳥居の写真が、なんともいえない雰囲気を漂わせていて惹かれます。

    小さい頃、自宅に父の友人の埴谷雄高がよく来ていたという、影響でもなかろうが、猫種族の生活を撮る花さんは、正に自同律の不快、そのものに見えます。

    長々とすみません、
    最後にnobuさんのその時の写真を撮る、その経験の現場の描写が、こちらに何かを与えてくれるようでした。

  3. コメントをどうぞ                

    匿名さんとのやりとり、
    ようやく気付きました。
    でも、それが匿名さんに伝えていた長い間‘開かなかった写真’であるとは‥
    秘密めいています。

    私は、当時nobuさんに聞かなかったことがあります。
    東吉野のころです。
    それは6×6(まだ東吉野に移っていない時でした)で撮影された、雑木林の写真があったために、聞きにくくなっていたのかもしれません。

    何故‘奈良なのか’という事と、 その後、‘街はもう撮らないのか’という疑問というより、無意識に要請をしたかったんだと思います。
    その後、街(町)へと近づくような気配の写真があったため、余計に忘れてしまったのでしょう‥。

    さてペプシのある写真です。
    私の携帯では正方形に納まったので、そうであると思います。
    そして、この写真の力は、先ず光であるように感じます。

    初め、上半分しか開いてくれなかった画面に、際立つ建物の角度と光が見え、
    その強い光の反射に、不快感さえ抱いたのが嘘のような、全体の張り詰めた好ましい緊張感。

    そして次にその多くを占めるのが左の建物です。
    全体のその雰囲気で、それが大正・昭和初期ぐらいに建てられ、
    下町に多く見かけられる魅力ある建物と、共感覚で結ばれ、何れ見捨てられる運命の建物、そんなイメージが付きまといます。

    しかし、この建物には情緒があり、言葉を変えれば、‘楽しさ’の現場そのものがあります。
    一方、右の強い日差しを浴びている寂れた事物が、物言うのは荒廃の雰囲気です。

    ここにも、間章が‘反対の一致’としながら深く同調した森有正の“慰安と荒廃が同時に存在する”という、その言葉のイメージに近しい写真ともいえそうな気がします。

    また、りりしくこちらに向かって絶妙なパースペクティブで迫るその左の建物には、一見何処にもありそうな、二つの顔があります。
    一階は空間も自由に、内外両ベクトルも開かれているのに対して、二階は凛とたたずむ、内的な空間を感じさせます。
    これは強固な意志も感じさせ、これら二つの性格の在り方が、この建物を豊かに見せているようです。
    もちろん、柱の力強さや、細やかで繊細なデザインが、建物を魅力ある個と認める要因の一つを担っているのを忘れるわけにはいきません。
    しかし最初に戻ります。
    この楽しく、思惟的な場を豊かな生成の場にしている要因の最大なものは、
    私には、場が光を受け入れ、或いは光が場を照らし、明かしている、ということに尽きると思います。

    そして、自転車と自動販売機は、幾つもの、物語りを始めるのです。

    下町の神話の如くに。

  4. ラピスさんコメントありがとう。
    街を撮らない事はないのですが、街にいる時間が少ないので撮る機会に恵まれないのです。

    ペプシの写真のようにたまに出かけたとき、撮影することがあります。あの写真はあれより少しでも荒廃が進んでいれば決して撮らなかったと思います。

    街の写真の幾つかは、違う要素を同時に再現する必要に迫られます。今回の写真も場の再現ということを考えて撮影しています。

    しかしあのペプシのような写真は稀で、多くは朝の散歩時に撮影したものです。
    微かな喜び、繊細な光などを感じ、気持ちを動かしながら撮影しています。
    フッと振れる心の振幅を、一瞬で映像にすることが楽しみになっています。

    感覚が優位である写真です。

    それでは、また

  5. カールさんこんにちは。

    胸騒ぎの正体を知るには、
    詩人は言葉を使い、
    音楽家は、楽器を使います。

    カールさんは何を使いますか?

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