自分に疲れるときは

体力的な疲れや精神的な疲れよりも、時に自分に強く疲れる。

自分の自我のありようが、その逃れ難さがどうしようもなく、自分を覆う。

春は自我さへも勢いよく育っていくのかもしれない。

いつになればこの自我を手放すことができるのだか。

今世が無理なのは解ってはいるが。 

 

自分に疲れたときは、古い写真を取りだして眺めてみる。

若い頃の写真は、どこかに静謐さと真剣さがある。

見失いかけた自分の影が見える。

孤独を恐れない強さがある。

 

昔のモノクロームの写真を見ていると、その場所の音や香り、風、湿度などを感じる。

この場所でよく生きたのだろう、よく見たのだろうと思う。

image2-1

ただその人のこころにあり  西行桜

昨日のブログに、ことさら桜の花を撮影しないと書いた。

これは、桜に浮かれ騒ぐ人たちへの非難が暗に入っているようで、少し恥ずかしい。

こんなことを考えていると、能に「西行桜」というのがあると我が家の相棒が教えてくれた。

修行の障りになるのをおそれた西行が、今年は花見客の訪問を受けまいと決心するが、都の花見客に乞われて仕方なく見物をゆるしてしまう。

「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」

と桜に咎があるような歌を詠みます。

夜に桜を見ていると、桜の精の老人が西行を訪れ

「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、

非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ」

という詞を述べます。

ほんとうにその通りで、草木に憂き世の咎などはないのだ。

「西行桜」の話を知って、私の心の狭さが桜の花を通して現れたのだと気づいた。

陶淵明にも「心遠ければ地も自ずから偏なり」という詩がある。

世界は自分の見るように見える。

解ってはいるが、気づくことは難しい。

dsc06253

 

dsc06259

被写体のしての桜

私はことさら桜を撮影することがない。

桜が咲けば美しいと思い、散れば美しいと思う。

道を歩くとき、空気を感じるとき、光に心が満たされるとき、カメラを向ける。

それが桜であることは少ない。

桜は春の象徴のようで、その概念を打ち破るほどの出会いをしていないのかもしれないし、私にそのような力がないのかもしれない。

r0012738

 

r0012746

春という季節を静かに見つめ、やり過ごしたいと思っている。

桜を見るとき、そっと息を吐きながら、小さな思いで見つめていたい。

春が深くなるほどに、晩秋への思いは募る。

人生の秋を迎えた身には、春は少し騒がしい。

カラーで桜の樹を撮影することは難しい。

モノクロームの桜が私の思いに少し近い。

r0012787