ただその人のこころにあり  西行桜

昨日のブログに、ことさら桜の花を撮影しないと書いた。

これは、桜に浮かれ騒ぐ人たちへの非難が暗に入っているようで、少し恥ずかしい。

こんなことを考えていると、能に「西行桜」というのがあると我が家の相棒が教えてくれた。

修行の障りになるのをおそれた西行が、今年は花見客の訪問を受けまいと決心するが、都の花見客に乞われて仕方なく見物をゆるしてしまう。

「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」

と桜に咎があるような歌を詠みます。

夜に桜を見ていると、桜の精の老人が西行を訪れ

「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、

非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ」

という詞を述べます。

ほんとうにその通りで、草木に憂き世の咎などはないのだ。

「西行桜」の話を知って、私の心の狭さが桜の花を通して現れたのだと気づいた。

陶淵明にも「心遠ければ地も自ずから偏なり」という詩がある。

世界は自分の見るように見える。

解ってはいるが、気づくことは難しい。

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“ただその人のこころにあり  西行桜” への2件の返信

  1. コメントをどうぞ                

    ノブさんの物言いには共感するところが多々あります。
    そういえば、間章さんは夏の晴れやかさを憎悪の季節だと断定していました。

    私は11月下旬から12月上旬の空気感が好きです。しかし、最近春が染み付いてきたのも事実で、小樽を訪ねるのは春か秋、そして冬の順ですが中心は春です。

    桜を念頭においているのではなく、私も光や空気感が好きだからです。

    ただ、祝祭としての桜を毎年撮影、フリーランスで桜展をしておられる神田さんの写真を見ていると、北海道の冬を越すという経験を知らない私でも桜が身近になってきたようです。

    現に、その神田さんの一枚の桜は畏敬に値するほどの見え方を宿し、桜を意識せざるをえない私が居るようです。
    撮られた本人より、私の方が身近に感じている様な気がするくらいです。

    北海道では、八重ですが、松前の桜も是非訪れて見たいものです。

    それから、横浜の方はもちろん、最近では以外にもカールさんの桜の見方にも影響を受けています。

    今一度振り返るに、晴れやかだからこそ、この桜と言う事物は手強い‥とも
    そう、世界に対する楽しみが一つ増えたような心持ちになるのです。

    小さな夢があります。

    例えば森山なら新宿とか故郷の宅野あたり、
    私なら、小樽や奄美大島、海外ならモロッコ、イタリアやチェコ、ブルガリア、クロアチア、スペイン、イギリス、など…
    海外は私には重荷ですが、桜にはそうした魅力的な町や都市に対する憧れに似た想いがあるように感じています。

    最近、本屋で榎本敏雄という写真家の‘かげろひ’という写真集を見ました。

    桜以外にも惹かれる写真がある写真集ですが、
    この桜の写真は奥があります。

    私も来年は新しい桜に出会いたい…。

    吉野辺りには、きっとそんな桜がひっそり生きているにちがいありません。

    追伸

    記憶力が極めて悪いのですが、能の「西行桜」は平安神宮で観賞したのを感覚的に憶えています、
    行儀が悪く、注意力が続かない観客の私でしたが、
    能には何処か惹かれるものがあるようです。

    来年のノブさんの桜写真に期待をよせて…。

  2. コメントありがとうございます。
    今日の雨で吉野の桜は散ってしまったかもしれません。

    また来年ですね。

    様々な こと思い出す 桜かな 芭蕉

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