孤独の意味

表現を通じて宇宙と出会いたいという思いがあるならば、その行為は孤独でなければならない。

それは、写真においても同じ事である。

その孤独を森有正は、「根源的孤独」という言葉で表現した。

「感覚はすべての思想、すべての作品の根源であって、独立していなければならぬ。
それが孤独ということの本当の意味である。
それ以外の孤独は感傷である。」

数十年を経て、やっとこの森有正の言葉の重みに気づく。

孤独とは「個」であることだと思う。

自己が個へと高まるとき、私は宇宙と出会い、そして繋がる。

この「根源的孤独」から得られる感覚は、表現となり、やがては多くの人の感覚や心に訴求するものになる。

 

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夏の気配

投げつけられたような光に、夏の昼下がりを感じるとき

蝉の声が熱に溶けて、気配が身体を覆う。

緻密さを欠く、もののありように

身体に覆い被さる熱が蜉蝣のように蒸発する。

一本の道を前に、目が感じる気配を捉える。

風景と自分との距離は微妙に変化し、招き寄せ、遠ざかる。

気配が最も濃厚になる場所に身体をシフトさせる。

この気配を演出する空間がすべて満たされる場所へ。

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啐啄同機

言葉を人に伝えることは出来るけれど、気づきを与えることは難しい。

禅の言葉かどうかを忘れてしまったけれど「啐啄同機(そったくどうき)という言葉がある。

ひな鳥が卵の殻を破って外に出ようとするとき、親鳥が同時に殻をつつく。

自分の力だけでは殻は破れない、親鳥の思いだけでも、殻は破れない。

出たい思いと、出したい思いが重なった時に、殻は破れる。

そのような意味だと思う。

禅では、師と弟子の関係は絶対である。

師が弟子を見続け、弟子が厳しい修行を重ねて、同じ時を過ごす。

時期が来たと判断したときに、お互いの思いの重なりとして、悟りが開かれる。

多くの人が、折々に私の殻を破ろうとして、外から突いてくれているのだろうなと思う。

だが、殻が厚すぎるのか、中まで音が聞こえないのだろう。

まず、殻を薄くすることが必要かもしれない。

しかし親が突かなくても、孵る卵はある。

カエルが卵を突いているのを見たことがない。

は虫類や両生類の卵は、きっと殻が柔らかいのだ。

時期が来れば自力で出てくるから。

殻を破ろうとするより、殻を柔らかくする方が少し楽かな。

これならあまり人に迷惑をかけないし。

鳥式よりも、は虫類式の方が自分に合っているような気がする。