生まれ育った路地を歩くと軽いめまいを覚える。
路地の奥に見覚えのある家があり、知らない人たちが話をしている。
周りの風景が呼吸でもしているかのように、膨張したり収縮したりしている。
私が歩いたという痕跡は何処にもない。
私がここにいたという痕跡は何処にもない。
ただ私の記憶があるだけ。
しかし記憶に確かなものなど何もない。
黄昏時に知らない町を歩いてると、
ふっと、私はもういないのだという思いに捕らわれる。
自分がこの世にいないのに、それが分からなくて彷徨っているような気がする。
この路地も私には、もう現実では無いのかもしれない。
写真は、シャッターが切られた瞬間に、風景が入れ替わる。
同じ風景を二度見ることは出来ない。
その場所に、同じ自分を留めることは出来ない。
写真は記録ではないのかもしれない。
記憶の凝縮かもしれない。
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ここにある内と外を同時に眺めるような文章に接し、そして写真を見たあと
その夜、私は夢を見たのを思い出しています。
何時もの架空の街を彷徨っているのですが、カメラを持ち歩いていたのかもしれません。
その街はもしかすると仮初めの札幌の街だったのかもしれないと記憶を辿り寄せたりするのですが‥
私はこのような数多くの
現実とは違った仮初めの
街の夢をよく見るのです。
“黄昏時に知らない町を歩いていると
ふっと 私はもういないのに… 彷徨っている気がする
この路地も私にはもう現実では無いのかも知れない”
このノブさんの無意識的な言葉から、また浮かんだのは、鈴城雅文さんの「写真=その肯定性の方位」、
そのなかの武田花さんの「眠そうな街」の写真を論じた部分です。
でも、この無意識と覚醒の狭間を深く分け入るには今の私の任ではなく、
またコメントを逸脱するような気もしますので…
ここは写真の印象へと…。
物語りの流れを示すような1・2の写真はまだア・プリオリな範疇の感覚であるのかもしれないのですが、
眠そうな街、否見知らぬ町への道案内と言えるかもしれないようです。
3は更に進んだ迷宮への入り口‥路地なのですが、
さて私は向こうに進んでいくのか、通ってきた道なのか‥
と、4では突然予期せぬ街の出現に感覚は静かな驚きに直面するかのようです。
そして映画に精通していない私が、思い浮べたのは
「さすらい」という初期のドイツで撮っていたころのヴィム・ベンダースの映画。
何故と問うとうまく言えません、
ただこの写真には二つの世界が在るように見え、それが現実の街を逸脱しています。
先ず何といっても目が走るのは、道の右側の建物です。
覚醒という言葉を先程使いましたが、まさにこの鋭敏な線と光の面で構成された右側の遠近的空間は現実を強く感じさせてくれる部分が含まれているようです。
一方、道の左の建物と正面奥のマンションのような建物は、表情は淡く輪郭は滲むようにしてあり、
存在が少し不確かに見えます。
死・夢・現実・非現実
確かに錯綜とした感覚を持ちながらの写真拝見になりました。
チャリンコの写真。
真ん中に悪魔がこっちを見て立っている。
貴様の誘惑には負けない!
表現は悪魔の罠です。
ペプシで成し得たものはなんでしょう。
ただ次への道が開けただけです。
先に進むか、立ち止まるか。
見て見ぬふりをする自分がつらい。
見て見ぬふりをしないように。
表現が悪魔の罠なら、まず身を投じましょう。
いつも立ち止まり、しかしいつも先へ進み。そしてまた立ち止まる。
これをどれだけ繰り返してきたことか。
今年は少し気を入れて、撮影します。
カールも一蓮托生でお願いします。
OK!
心中しますかァ。
・・・何と?
大好きな・・と。