光差す影の奥に

光が紡ぐ影の奥を、凝視するように見つめる日がある。

刻まれた影が陰影を濃くし、その奥に存在するものを隠そうとしている。

まるで自分の心の奥を覗き見るように、ファインダーを凝視する。

光差す影の奥に、水の深みに、私の原初があるのかもしれない。

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“光差す影の奥に” への4件の返信

  1. コメントをどうぞ                

    上田義彦の写真集に、確かカナダとアメリカ辺境にある深い森を撮ったものがあります。

    そのなかに1に似通った樹木の写真があり、
    つい比べてしまいます。

    記憶の語りですが、背景への感じの差異が脳裏を過ったのです。
    上田義彦の写真は大型カメラで撮影された、グラデーション豊かな美の極み、

    比べれば1は美しさの点では、忘れ去られているかのように関心事ではないようです。

    でも強い日差しが充たる樹木と、背景に辛うじて存在が感じられる事物たちの存在感は見つめる者との距離を深淵に誘うようであり、あの階段にあったような対称との関係とはまた違い、

    見るものを伺い、引き込み、突き放す‥。

    この1の写真を見ていると画家、黒田アキの例えば「訪問者」という絵を思い浮べるのは、闇に関する繋がりを、ふと思い浮べたのかもしれません。

    マルグリット・デュラスは黒田に関するエッセーで、“黒田は沈黙の先を行く…彼は照らしえないもの、光をとらないもの、光を保持しえないものを照らしはしない…”と。

    2・3・4の繋がりも黒の陰影が主体をなし、時に2のように不条理的に近い感覚も顔を出します。

    しかも、ノブさんの語りと写真は、他者としての私の視線には差異はあるものの、
    それは見るものの想像力を促し、好ましくあるべき指向性へと促すかのようでもあります。

    ただ、これは最近好ましい写真を撮り続けているノブさんの部分であり、
    その部分のプンクトゥムとも言える感覚を、部分で閉ざすのではなく、
    見るものとしては何かの全体への繋がりを他者の世界から私の世界への経験と成すことができれば…
    などと気楽に思ったりするのです。

    ふと今回の写真では、森山大道さんの「忠治の旅」、或いは藤原新也さんの写真と言葉の“それから”を指向性としてを引き継ごうとしたもの…
    などと恣意的な想像をしてしまいそうです。

  2. ラピスさんいつもコメントをありがとう。

    最近の私の写真は、個々はあるレベルを確保しているものの、全体としては非常に脆弱な感じがします。

    「見るものとしては何かの全体への繋がりを他者の世界から私の世界への経験と成すことができれば…」

    指摘の通り、何かの全体への繋がりが欠如しています。

    個々の写真をいくら集めても、全体には繋がらない。
    はっきりと書けば、表現が欠落している。

    いつもこの時点でとどまり、ここより先に進めない。
    この先へ進もうとするのか、ここでとどまるのか。
    自分でもわからないのです。

  3. コメントをどうぞ                

    謙虚ですね。

    ノブさんのここ数か月の成果は、私にとっても目の思考という時間の充実をもたらしてくれたようです。

    本当に感謝しています。

    部分と全体の問題を定義するのは難しいですね。

    ただ全体を想定して部分という過程を抑圧するより、部分を経験を踏まえて、プログレッシブに時にレグレッシブに進むノブさんのプログの有り方は、とても好感が持てます。

    時に男性原理的になるのは止むをえないのでは…
    でも基本的には両性具有的な資質のみえるノブさんの前向きな生き方は、
    こちらも励みになります。
    ゆっくり、前進しては立ち止まり、多様であって欲しいと私は思います。

  4. 7月12日のブログに写真をアップしました。
    「部分を経験を踏まえて」の言葉に励まされて、撮影をしています。
    多様であることは、やはり困難で、既知の表現へと逃げ込もうとしてしまいます。

    しかし、今年はゆっくりと撮り続けると思います。
    これからもよろしくお願いします。

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