私は写真に多くの言葉を費やしてきた。
しかし言葉に終着点はなく、満たされることはなかった。
自分の「表現」というものを手にすることが出来なかった。
そして写真を諦めた。
理論を捨て、言葉を捨て、表現を捨てた。
そして吉野へ引越しをした時、ふとしたきっかけで写真の楽しさと出会った。
私は写真の持つ困難さを手放し、新たな感覚と出会う装置としてカメラを使い始めた。
今、写真を撮ることは私の楽しみで、私を自由にする。
光を感じ風を見ることが出来る。
洞川を渡る心地良い風と空
雑木林を揺らす風と朝の光
自分の眼と心が愉しまない物や事に別れを告げよう。
困難さを友として人生を歩む人たちと袂を分かとう。
これからは、愉快を生きよう。
この蝶ほどには、自由ではないけれど
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何かの夢を見ていたようです。
不意に起きると枕元で寝ていた我が家の猫さんが、嗚咽をしています。
それを見守り、処理をしたのち、気分転換に音楽を聴くことにしました。
Stefano Battagliaというピアニストの‘Re:Pasolini’という題名、
ECMの作品でピアノの他にトランペット、クラリネット、セロ、ダブルベースにドラム。
でもジャズではなくシリアスな音楽です。
と同時にノブさんのブログを開けてみたくなりました。
シリアスな独白、などと私がいうのも失礼ですが、
その言葉に、つい何がしかの淡いような白色の時間を感じてしまいました。
そして一枚目の写真が出てきました…。
と、写真が私の部屋を低い音で漂っていた音楽になり、私は風景に吸い寄せられたのです。
そして風景の彼方の空に出会ったのです。
言葉で囲うことのできない尊い雲は、夢のなかの現実のようにただ浮かんでいるのですが‥
暫らくしてから気付きました。
少なくとも今、私は私のなかの吉野(奈良)を覆されたのを感じたのです。
なんとも奇妙で美しく感謝したくなる時間を過ごしたのです。
私は夢を見ていたのではないのです。
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滲んでいるような柔らかさがあり、また鮮やかですね。
いや、蝶々のいるカラー写真なのですが‥
上の二枚のモノクロの写真とは確かに異質なのですが、その世界の中の小さな部分であるという感覚のパースペクティブは亀裂というより、自由という言葉が浮かびます。
この花達なら蝶々に成りたいところですが、
あの空の中を飛んだら
どんなでしょう‥。