感覚・・・写真についての覚書

カメラを持って歩いていると、はやり感覚が敏感になる。

出会いたい感覚があるのかもしれない。

心の微かな揺れを増幅し、身体全体で感じようとする。

私にとって、写真は自分の出会いたい感覚のコレクションかもしれない。

感覚をカメラで捉え、写真にするときに「表現」が必要になるのだろう。

自分が感じたものをそこなうことなく、写真上に現そうという思いが「表現」を見いだす。

表現とは、私の場合、世界と自分が出会う「様式」の新しい発見というところだろうか。

新しい様式はいつか捨てなければならない。

表現はいつしか眼の癖になり、自分自身を拘束する。

表現を手放し、感覚を得る。

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この作業をこの先どこまで続けるのだろう。

きっと自分を求めなくなるまで。

下方の階段の写真をよく見ている。

今の私にとっての好ましい感覚。

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“感覚・・・写真についての覚書” への1件の返信

  1. コメントをどうぞ                

    表現という言葉は身近なものであるようですが、
    私は苦手としています。

    ノブさんは解りやすく、自身を巻き込み語っていますね。

    中平卓馬さんなら、ここで「表現」と使わないで「記録」としているのですが、
    要は日常の既存の視線を超えること、
    見ていたと思っていた事の意味を無くすことの痛みを背負い、同時に軽やかに創造的な視線(生)に向かうことができれば、
    その平面に浮かび上がるところの像は果てしない奥深さを秘めているような気がします。

    そして、ノブさんの語る‘感覚の優位’は外すことのできない視座の要だと思います。

    一枚目の写真
    何処かで見たこと(感じたこと)があるような‥
    という気持ちが過りながら強く惹かれる写真です。

    そして何処か閉ざされた感覚も強さを増してくるようです。

    二枚目のカラーの写真
    この部分を強調するかのような対称が印象的な写真からは‘対象的思惟’という言葉が強く浮かびました。

    何れ、引き継ぐ写真が出てきそうですね。

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