鈴木俊隆師の「禅マインド・ビギナーズ・マインド」をゆっくりと一読した。
珠玉の言葉が、時に真摯に、時にユーモアを交えながら、淡々と語られている。
この本の内容は、読んだ人それぞれの生き方に呼応するように、変化するだろう。
経験者は経験者の読み方を、初心者は初心者の読み方をする。
しかし、どんな立場であっても、この本を批判的に読むと、時間を無駄にしてしまうだろう。
この本に書かれていることを、純粋に、全くの受容で、無批判で受け取るとき、この本は良き導き手になる。
本の最初に「初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。」と書かれている。
写真も同じだと思った。
写真を撮る私にとって一番難しく、必要なことは、いつでも「初心」でいることだろう。
写真には、多くの技術がある。しかし技術が被写体と出会う訳ではない。
自分が、初心の感性・初心の眼差しを持って世界と出会うとき、世界は新しい美しさを見せてくれる。
被写体に向うときにはいつも「初心」であることが大切だ。
どんな見慣れた、毎日通る場所でも、そこにあるときはいつも「初心」でいたい。
「写真にとって一番大切な技術は」と聞かれたら、これからは「初心であること」と答えよう。
本のあとがきに鈴木俊隆師の心温まるエピソードが幾つか書かれてる。
「ある晩、禅センターのホールで、受付をしていました。
老師と奥さんが出てきました。私は新入りで、緊張して座っていました。
老師は、微笑んでいわれました。
『グッド・ナイト』
それだけでしたが、それは私の人生を変えてしまいました。」
この部分を読み終えて、私は胸が一杯になって続きが読めなくなってしまった。
何と、素晴らしい出会いだろう。
何と素晴らし師だろう。
いい出会いは一瞬で人の人生を変える力がある。
この年になってもなお出会いを求めている自分がいて、このエピソードに感動したのかもしれない。
初心、
清楚な薫りがします。
でも、ここでノブさんの述べているのは、経験を踏まえた上での初心だと思います。
そして、初心には畏敬の念も大切ですね。
私などは慢心が、何時も隣り合わせです。
ところで、考えてみれば
ノブさんの写真は、エッセー写真ともいえるもの。
吉野を表している写真でも無いですし、何かテーマに固執したものでもない。
だから、そのおぼろげな全体の写真を想起するより、部分を生きている事物、風景に視線が走る。
でも時折、一つの全体は難しいとして、小さな全体像が部分として生成しているような気もします。
今回の写真では3枚目の草の流れに見える写真が、モネの睡蓮の池を思い浮べました。
私の感想は穏喩的ですが、この抽象的な写真は、美しくもあり、そしてあくまで部分的であると感じました。
追伸
先日、時間は無く、ただ通っただけですが、桜井から榛原、室生を通って名張へ抜けました。
私は実は奈良は嫌いだったのですが、
先日の明日香から吉野へ抜けたり‥、
ついに奈良は恐ろしや!
その原風景に圧倒されてしまいました。
部分が全体であるような小さな風景が好きです。
出来るだけ穏やかな部分で感じていたいです。
秋の深まること、吉野を訪ねて下さい。