この2日、太陽のひかりが惜しみなく降り注いでいる。
初夏の雲が空に踊る。
木々の葉が揺らめき、光を透かす。
草に埋もれた花たちにも、光が届く。
私の身体にも、光が振りそそぎ、細胞が躍動するのを感じることが出来る。
雨の日には、詩人に。
曇りの日には、哲学者に。
晴れの日には、踊る人になりたい。
そして、すべての日に、愛する人になりたい。
詩人も、哲学者も、まして踊る人にはなれないけれど
愛する人にはなりたいな、無理かな。
この日、何度、世界に向って素晴らしいと言っただろう。

光と風の交わる場所で
写真は光を感じ、光を撮る。
その意味で、曇りの日は写真には向かないような気がする。
曇りの日に、写真を撮ることは少ない。
しかし、曇りの日に、カメラを手に歩くことがある。
自分のこころを抱きしめるようにゆっくりと歩く。
自分の中にある寂しいこころ、心細さをかみしめるように歩く。
フラットな光は、植物に安らぎを与え、木々を渡る風もどこかリラックスしている。
特別でない時間の安らぎ。
カメラを向ける世界のないくつろぎ。
いつもとは違う事物の姿が愛おしい。
写真的ではないのかもしれないけれど、安らぎに満ちあふれている。
明日になれば、この世界はまた光に満たされる。
光に向かい、光を受け入れるために、陰を作るために、
事物は曇りの日に少し休息を取る。
厚い雲の向こうには、光と宇宙がある。
そのことを信じて、自分を休める時間。
だから、曇りの日の写真はそっとシャッターを押す。
休息を妨げないように。
先日の日曜日、二度目のビオダンサに参加した。
前回のように感情が大きく解放されるという感じはなかったけれど、こころの底から「ビオダンサ」を楽しむことが出来た。
前回のビオダンサに参加して、大きく自分の感情が解放されたその感覚を毎日味わいながら、その根底に流れるものが何かを考えてた。
そしてふっと、「私は人とつきあうのが苦手だ」ということに気がついた。
そうか「自分は人とつきあうのが苦手なのか」と思った瞬間、こころが楽になった。
へえ~、私が人付き合いが苦手、人前でプレゼンテーションをすることに苦痛もなく、誰と出会っても、無理なく会話をしている自分が。
でも確かにそうらしい。自分の知らない自分発見。
私はいつも、自分が人に受け入れてもらえるかどうかを、悩んでいたのだろう。
人との距離感が掴めなくて、こころのどこかに違和感があったのだろう。
ビオダンサでは、自分のすべてを受け入れてもらえる。
それもノンジャッジで。
そしてそのことが無性に、どうしようもなく嬉しかったのだ。
自分は、人のすべてを受け入れることができなのに、受け入れてくれる人がいる。
この思いが感情となって、感謝の気持ちとなって、涙となって溢れたのだろう。
ほんとうに貴重な経験だった。
人と繋がること、受け入れること、感謝すること、喜び合うこと、愛し合うことのすべてをビオダンサで感じることができる。
今回のビオダンサでは、すごくリラックスして、最初から自分を解放し、楽しい時間を過ごす事が出来た。
大阪クラスの素敵なメンバーのみなさんどうもありがとう。
またお会いできることを、とてもとても楽しみにしています。
最近はどこを見ても、何を見ても美しく見える。