光は透明なのだけれど、
なぜ、こんなに美しいと感じるのだろう。
どうしてこんなに静かなのだろう。
光と風の交わる場所で
ビオダンサに向う環状線の中で、ぼんやりと擦過する風景を眺めていた。
都市の場末を感じさせる寺田町や桃谷は私の好きな場所だ。
過ぎ去るビルを眺めていると、
ふっと「私は祝福されている」という感覚が浮かんできた。
祝福されている私がいて、
辛いと思い悩む私がいる。
これは、同じことの違う表現だなと漠然と感じる。
ビオダンサの会場に行くと、いつものあたたかいメンバーがいて、
いつものように、輪になって踊り始める。
瞑想では、こころにからだが溶けていく感じがするが、
ビオダンサでは、からだにこころが溶けていく感覚が楽しい。
自分が主体になり、自分と関わり、その自分が人と係わる。
日常にはない濃密な時間が流れる。
ビオダンサでは、自分が自分の主役になる。
その主役同士が出会い、つながりを持つ。
そして、また別れていく。
出会って別れていく、この感覚が好きだ。
エンディングの音楽に合わせて輪が回るとき、ゆっくりと現実に戻る自分を感じる。
ビオの会場を出るとき、主体的な自分をそっと、ビオの会場に置き去りにする。
自分が自分の主役になる時間は、ビオの終了と共に消えていく。
日常の私は、自分自身の人生においてさえ、通りすがりでありたいと思っている。
本当の私や、探して出会える自分はいないなと感じている。
自分の人生のちょっと素敵なバイプレイヤーでありたいと思う。
この時代、今を生きている「私」を影で支える私がいる。
生きがたさを感じる「私」がいて、祝福を受ける「私」がいる。
そしてそれを見続け、励ます私がいる。
自分に死が訪れたとき、あの世に持って行けるものはなんだろうと、ふっと思ったりする。
ここに私が考えていることの答えがありそうな気もする。
「わたしが一番きれいだったとき」という言葉で書き始めると、茨木のり子の詩を思い浮かべるが、
わたしの感性がいちばんきれいだったとき、私は、漠然と根拠もなく、世界はよくなると思っていた。
ジョン・レノンの歌を口ずさみ、ベトナム戦争の反動で世の中には、愛と平和が溢れていた。
フラワーチルドレンたちは、「武器ではなく、花を」と訴えていた。
様々なムーブメントを通して発せられるメッセージの多くには、愛と平和への深い想いがあった。
しかし昭和の思いは置き去りにされて、いつしか世界は、安全を求めるようになっていた。
有事という言葉が盛んにマスコミに登場し、どうすれば日本の安全を守れるのかが議論されている。
もう自由とは何かが、語り合われることは無いのかもしれない。
国益や安全という言葉が、自由や愛という言葉を覆い隠し始めているような気がする。
私は忌野清志郎さんの「 IMAGINE」を聴くと、いつも胸が押しつぶされる。
私たちの世代は、ただ夢を見ていただけなのだろうか。
私たちの世代だけが、愛と自由にこだわったのだろうか。
このビデオの「君一人じゃない 仲間がいるのさ」いう箇所でいつも泣いてしまう。
今の私たちに一番必要なのは、やはり愛なのかもしれない。