痛みの日 そして再起の日へ

私たちはこの地震で、多くの尊い、かけがえのないないものを失ってしまった。

時間と人々の努力と、悲しみと笑顔、汗と涙で培われたすべてのものを失ってしまった。

この痛みは、自分のこころとからだの一部を失った痛みに等しい。

私のこの痛みは、世界が一つであることの証のような気がする。

かけがえのない世界の一部が失われた痛み。

私の周りにも、この痛みに耐えている多くの人がいる。

私は今、この痛みの中にあって、自分もまた世界の一部であることを強く感じている。

もし私たちが一つであるならば、

私たちの力と笑顔がいつの日にか、

かけがえのないものを失った人たちの笑顔と力になるかもしれない。

その時のために、笑顔が作れるような生き方をしよう。

その時のために、私は穏やかな呼吸をしよう。

その時のために、今の仕事をきっちりとやり遂げよう。

この長い再起への道程の途上に、私に出来ることがあると信じて。

繋がる思い 恵古箱さんのおうち

恵古箱さんのおうちを久しぶりに訪ねた。

このおうちには、独特の時間と空間が流れている。

現在の社会に流れる時間とはひと味違う、ゆったりとした時間がここにはある。

それは、ふるいものたちが醸し出す独特の雰囲気かもしれない。

 

ここにあるふるいものたちに、特別な価値があるわけではない。

ただふるいだけでもない。

何かつながりのあるもの。自分とつながるものたち。

例えば、遠い記憶に登場するものたちだったり、

幸せな時間を呼び覚ますものたちだったり、

手のひらや、指先が覚えている温もりだったりする。

 

宝物のように大切にされた、ガラスの瓶

飽きずに眺めたコップの模様、

思い出の詰まったブリキの缶

人がものを理解し、慈しみ、大切に扱った時代の記憶が蘇るのかもしれない。

もし、恵古箱さんのおうちを訪ねるのなら、ゆっくりとした時間のあるときがいい。

ゆったりとした時間の中に佇んでいるのに、あっという間に時間が過ぎてしまうから。

いつも最高の笑顔で迎えてくださる恵さん、どうもありがとう。

 

楽楽重楽楽

古詩十九首に「行行重行行」(行き行きて重ねて行き行く)という詩がある。

これは、「離別の詩」と言われ、行軍を重ねて遠くへ行ってしまった夫を思いやる妻の悲しい思いが綴られている。

私はこの言葉の重なり具合が好きで、「行き行きて重ねて行き行く」と詠むと、遠くへ、ほんとに果てしない遠くを旅する人を想像してしまう。

年を重ねると「過過重過過」だなと思う。「過ぎ過ぎて重ねて過ぎ過ぐ」という感じがする。

吉野の桜に当てはめると、「咲咲重咲咲」(咲き咲きて重ねて咲き咲く)というイメージにぴったりする。

私は十分に人生を楽しんでいるので、後もう一楽しみをして、

「楽楽重楽楽」がいいような気がする。

これは、「楽しみを楽しみて重ねて楽しみを楽しむ」と詠むとぴったと来る感じがする。

こんな暢気な文章を書いているけれど、実は確定申告の真っ最中で、どうも現実逃避しているようだ。

毎年の事だけれど、どうも好きになれない。

こんな時よく「行行重行行」という言葉を思い出す。

あ~、何処か遠くへ行きたいな。

此処からではなくて、自分から遠い場所へ。

 

友人からお借りしたCanon 5D MKⅡで撮影しました。