ただその人のこころにあり  西行桜

昨日のブログに、ことさら桜の花を撮影しないと書いた。

これは、桜に浮かれ騒ぐ人たちへの非難が暗に入っているようで、少し恥ずかしい。

こんなことを考えていると、能に「西行桜」というのがあると我が家の相棒が教えてくれた。

修行の障りになるのをおそれた西行が、今年は花見客の訪問を受けまいと決心するが、都の花見客に乞われて仕方なく見物をゆるしてしまう。

「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」

と桜に咎があるような歌を詠みます。

夜に桜を見ていると、桜の精の老人が西行を訪れ

「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、

非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ」

という詞を述べます。

ほんとうにその通りで、草木に憂き世の咎などはないのだ。

「西行桜」の話を知って、私の心の狭さが桜の花を通して現れたのだと気づいた。

陶淵明にも「心遠ければ地も自ずから偏なり」という詩がある。

世界は自分の見るように見える。

解ってはいるが、気づくことは難しい。

dsc06253

 

dsc06259

月は東から

与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」の俳句を思い出すように、月が出て日が沈んでいった。

この当たり前のことが、何故か腑に落ちて楽しかった。

毎日ほぼ同じ道を犬たちと歩く。

目をこらせば、今まで見ると事の出来なかった情景に出会える。

dsc05735

蔓に光が当たって輝いている。

dsc05727

dsc05770

dsc05720

様々な草花が重なり、美しい情景が生まれる。

花は何処にでもあることに気づく。

足下の草花を撮影することが最近の楽しみだ。

宝蔵寺の枝垂れ桜

今年もまた、東吉野村、宝蔵寺の桜を見に出かけた。

dsc05669_edited-1

ここの桜には、どこか悲壮感をある。

樹齢を重ねて、なお小さな花を枝いっぱいにつけて揺れる様は、少し痛々しい。

そして、艶やかで、狂おしいような美しさがある。

坂口安吾や梶井基次郎が描いた桜の世界と重なる。

dsc0561133

dsc05649

dsc05677