昨日のブログに、ことさら桜の花を撮影しないと書いた。
これは、桜に浮かれ騒ぐ人たちへの非難が暗に入っているようで、少し恥ずかしい。
こんなことを考えていると、能に「西行桜」というのがあると我が家の相棒が教えてくれた。
修行の障りになるのをおそれた西行が、今年は花見客の訪問を受けまいと決心するが、都の花見客に乞われて仕方なく見物をゆるしてしまう。
「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」
と桜に咎があるような歌を詠みます。
夜に桜を見ていると、桜の精の老人が西行を訪れ
「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、
非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ」
という詞を述べます。
ほんとうにその通りで、草木に憂き世の咎などはないのだ。
「西行桜」の話を知って、私の心の狭さが桜の花を通して現れたのだと気づいた。
陶淵明にも「心遠ければ地も自ずから偏なり」という詩がある。
世界は自分の見るように見える。
解ってはいるが、気づくことは難しい。