投稿日: 2009 年 4 月 6 日2009 年 4 月 6 日 投稿者: nobu宝蔵寺の枝垂れ桜 今年もまた、東吉野村、宝蔵寺の桜を見に出かけた。 ここの桜には、どこか悲壮感をある。 樹齢を重ねて、なお小さな花を枝いっぱいにつけて揺れる様は、少し痛々しい。 そして、艶やかで、狂おしいような美しさがある。 坂口安吾や梶井基次郎が描いた桜の世界と重なる。
桜が美しい時期ですね。 実は、今だに吉野の桜は見たことがないのですが、 写真で見る、この宝蔵寺の老垂枝れも魅力的ですね。 写真で見るかぎりですが、京都山国は常照皇寺の九重桜に似ていて親近感を感じます。 その常照皇寺の開山は光巌天皇、南北朝時代は政治に巻き込まれ、吉野にも縁をもちます。 ノブさんなら承知かもしれませんね。 その九重桜の撮影は楽しいのですが、納得できる写真となると難しいところ、 でも、その手強さがまた良いと言えます。 さて、私の今年の桜歩きは自宅近くの佐野藤右衞門さんの桜苑、 次に、広沢の池の東に広がる世界救世教の庭、 その華麗な桜の巨木(近付けません)これも佐野さん監修です。 御所北側の数本の垂枝れ、 そして嵐山土手添いの点在する桜。 常照皇寺も予定はしているのですが… そういえば、以前テレビで佐野さんの桜に関する番組があり、信州の桜と吉野の桜が放映されたことがあります。 吉野の桜は何れかの村の個人の桜で、地味ながらとても惹かれた桜でした。 時間が経ちました。 一枚目の写真、空の色と、日差しに一抹の不満を持ったのですが、その全体像の桜を見続けていると、その細部まで視線が届き、同時にまた四角い画面まで戻る… 巨視と微視が同時に私のなかに存在する。 それは花を着飾った樹木の力が、私に力を分け与えるかの如く、 そう不思議な事ですが楽しくなるのです。 ふと共感覚として写真が脳裏を過ります、 アッジェの街角・エヴァンズの正面から撮られた建物・高梨豊の町。 無数に氾濫する桜の写真、でも、まだまだこれからの未視の桜の写真。 否、桜は在るのですから、見方の奥深さが欠如しているようにも思われます。 桜・桜‥ やっと桜の良さの入り口に来た想いです。 実は今か今かとノブさんの吉野桜を待っていたのです。
ラピスさん コメントをありがとうございます。 桜の写真は、納得して撮れることは少ないようです。 リーフリードランダーのモノクロームの桜、東松照明の桜等いろいろ思い出しますね。 今日撮影しましたのでブログの方にアップしておきます。
コメントをどうぞ さて、更に時間が経ちました。 宝蔵寺の桜の二つ目の写真ですが、所謂、単純に綺麗だとか美しいとかではなく、 何がしかの力を感じてしまいます。 数日前はどうだったのか‥朝早くでの光ではどうだったのか‥ 花が少ない時は樹木はどう見えていたのか‥ PCではどんな映像なんだろうか‥ 去年はどうだったのか‥ そこには無い、時間や空間や光が気になるのです。 では見ることに不足かと言えば、 まったくそんなことはなく充実して見ることができるのです。 三つ目の写真はどうか‥ もしかしたら、この一枚だけなら私は気に留めずにいたかもしれません。 先の写真で隠された樹幹(樹木)の存在を知った私は、この繊細な写真に、神秘的とも言える二つの存在のパースペクティブに、視線を正すのです。 四つ目の写真、ここでも樹木は花を際立たせています。 否、力強い意志は見せているのですが、樹木はあくまで部分です。 そして一枚目の全体像に帰るのですが、 まるで、物語が帰結したかのようにその桜は来年に向かうかのようです。 四枚の桜はお伽話でもあるかのように写真に納まっています。 現実の桜がです。
コメントをどうぞ 二つ目の桜の写真を見続けています。 この得も言われぬ‘音の粒’と化している花の流れには、紗が掛かるようにガラス細工や、流れ星のような梢が隠れるように花々を支え、その背後には存在感ある樹木や枝が、見え隠れしている。 開花時に限らず、葉桜時、紅葉時、そして冬ざれ時など、どんな様子なのか‥ 様々な想いを廻らす写真です。
いつもコメントをありがとう。 桜を撮影するとき、樹全体を見ようとするよ、何故か桜が見えない。近づくと部分部分を感じることは出来るけれど、何か物足りない。 2枚目の写真は、自分なりに量感を求めて撮影しました。 全体と部分の間を見る写真です。
桜が美しい時期ですね。
実は、今だに吉野の桜は見たことがないのですが、
写真で見る、この宝蔵寺の老垂枝れも魅力的ですね。
写真で見るかぎりですが、京都山国は常照皇寺の九重桜に似ていて親近感を感じます。
その常照皇寺の開山は光巌天皇、南北朝時代は政治に巻き込まれ、吉野にも縁をもちます。
ノブさんなら承知かもしれませんね。
その九重桜の撮影は楽しいのですが、納得できる写真となると難しいところ、
でも、その手強さがまた良いと言えます。
さて、私の今年の桜歩きは自宅近くの佐野藤右衞門さんの桜苑、
次に、広沢の池の東に広がる世界救世教の庭、
その華麗な桜の巨木(近付けません)これも佐野さん監修です。
御所北側の数本の垂枝れ、
そして嵐山土手添いの点在する桜。
常照皇寺も予定はしているのですが…
そういえば、以前テレビで佐野さんの桜に関する番組があり、信州の桜と吉野の桜が放映されたことがあります。
吉野の桜は何れかの村の個人の桜で、地味ながらとても惹かれた桜でした。
時間が経ちました。
一枚目の写真、空の色と、日差しに一抹の不満を持ったのですが、その全体像の桜を見続けていると、その細部まで視線が届き、同時にまた四角い画面まで戻る…
巨視と微視が同時に私のなかに存在する。
それは花を着飾った樹木の力が、私に力を分け与えるかの如く、
そう不思議な事ですが楽しくなるのです。
ふと共感覚として写真が脳裏を過ります、
アッジェの街角・エヴァンズの正面から撮られた建物・高梨豊の町。
無数に氾濫する桜の写真、でも、まだまだこれからの未視の桜の写真。
否、桜は在るのですから、見方の奥深さが欠如しているようにも思われます。
桜・桜‥
やっと桜の良さの入り口に来た想いです。
実は今か今かとノブさんの吉野桜を待っていたのです。
ラピスさん コメントをありがとうございます。
桜の写真は、納得して撮れることは少ないようです。
リーフリードランダーのモノクロームの桜、東松照明の桜等いろいろ思い出しますね。
今日撮影しましたのでブログの方にアップしておきます。
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さて、更に時間が経ちました。
宝蔵寺の桜の二つ目の写真ですが、所謂、単純に綺麗だとか美しいとかではなく、
何がしかの力を感じてしまいます。
数日前はどうだったのか‥朝早くでの光ではどうだったのか‥
花が少ない時は樹木はどう見えていたのか‥
PCではどんな映像なんだろうか‥
去年はどうだったのか‥
そこには無い、時間や空間や光が気になるのです。
では見ることに不足かと言えば、
まったくそんなことはなく充実して見ることができるのです。
三つ目の写真はどうか‥
もしかしたら、この一枚だけなら私は気に留めずにいたかもしれません。
先の写真で隠された樹幹(樹木)の存在を知った私は、この繊細な写真に、神秘的とも言える二つの存在のパースペクティブに、視線を正すのです。
四つ目の写真、ここでも樹木は花を際立たせています。
否、力強い意志は見せているのですが、樹木はあくまで部分です。
そして一枚目の全体像に帰るのですが、
まるで、物語が帰結したかのようにその桜は来年に向かうかのようです。
四枚の桜はお伽話でもあるかのように写真に納まっています。
現実の桜がです。
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二つ目の桜の写真を見続けています。
この得も言われぬ‘音の粒’と化している花の流れには、紗が掛かるようにガラス細工や、流れ星のような梢が隠れるように花々を支え、その背後には存在感ある樹木や枝が、見え隠れしている。
開花時に限らず、葉桜時、紅葉時、そして冬ざれ時など、どんな様子なのか‥
様々な想いを廻らす写真です。
いつもコメントをありがとう。
桜を撮影するとき、樹全体を見ようとするよ、何故か桜が見えない。近づくと部分部分を感じることは出来るけれど、何か物足りない。
2枚目の写真は、自分なりに量感を求めて撮影しました。
全体と部分の間を見る写真です。