なぜかと問う前に、カメラを向けてシャッターを切る。
パソコンのディスプレイに向かい、なぜかとまた問う。
この5枚の写真を見ながら「私は自由ではない」とつぶやく。
違うと頭を振りながら、意識は沈黙する。
何を知りたくて写真を撮るのか。
何かを手放したくて写真をとるのか。
自分を求めなくなる日が来ることを、どこかで望んでいる。
光と風の交わる場所で
コダクロームの現像が中止になるというニュースを読んだ。
もう20年以上も使ったことのないフィルム。
最近はデジタルカメラでの撮影が多く、その存在さへ記憶の彼方に消えていたのに。
もうコダクロームで撮影出来ないという思いが、ものすごい欠如感を伴って去来する。
失ったものは大きい。
あの発色。深み。
暗部の中にさへ階調を伴い、白い雲さへ、豊かなグラデーションを演出する。
物質の奥へ、風景の深部へと見るものを誘う。
一度だけ、叶わないと知りながら、一度だけでいい
10本のコダクロームKRを持って旅に出たい。
知らない瀬戸内の町を、少し重みのあるニコンF3Pと歩いてみたい。
レンズは、50mmを1本だけ。
斜光の美しい漁港で、こころ行くまで、ファインダーを見ていたい。
ゆっくりとレバーを巻き上げる。
パトローネからフィルムが巻き取られる感覚。
絞りのリングを半分動かそう。
KRはオーバーに弱いから。
しかしシャドウは絶対に潰せない。
ぎりぎりに露出を切りつめる。
カメラと光と風景とフィルムが一つになる至高の瞬間。
シャッターが切れ、ミラーがあがる。
ファインダーが一瞬暗くなり、微かなショックが腕に伝わる。
カメラから目を離すと、きっと浜風と海鳥の声が聞こえてくるだろう。
切り取られた風景は、記憶より、なお鮮やかに、コダクロームに刻まれる。
デジタルカメラでは絶対に味わえないものを、また失ってしまった。
私は写真に多くの言葉を費やしてきた。
しかし言葉に終着点はなく、満たされることはなかった。
自分の「表現」というものを手にすることが出来なかった。
そして写真を諦めた。
理論を捨て、言葉を捨て、表現を捨てた。
そして吉野へ引越しをした時、ふとしたきっかけで写真の楽しさと出会った。
私は写真の持つ困難さを手放し、新たな感覚と出会う装置としてカメラを使い始めた。
今、写真を撮ることは私の楽しみで、私を自由にする。
光を感じ風を見ることが出来る。
洞川を渡る心地良い風と空
雑木林を揺らす風と朝の光
自分の眼と心が愉しまない物や事に別れを告げよう。
困難さを友として人生を歩む人たちと袂を分かとう。
これからは、愉快を生きよう。
この蝶ほどには、自由ではないけれど