私が気づくその前に

なぜかと問う前に、カメラを向けてシャッターを切る。

パソコンのディスプレイに向かい、なぜかとまた問う。

この5枚の写真を見ながら「私は自由ではない」とつぶやく。

違うと頭を振りながら、意識は沈黙する。

何を知りたくて写真を撮るのか。

何かを手放したくて写真をとるのか。

自分を求めなくなる日が来ることを、どこかで望んでいる。

 

2009 07 12_0161_edited-1

 

2009 07 10_0137_edited-2

 

2009-07-12_0178

 

2009-07-10_0120

 

2009 07 12_0175_edited-1

コダクロームの憂鬱

コダクロームの現像が中止になるというニュースを読んだ。

もう20年以上も使ったことのないフィルム。

最近はデジタルカメラでの撮影が多く、その存在さへ記憶の彼方に消えていたのに。

もうコダクロームで撮影出来ないという思いが、ものすごい欠如感を伴って去来する。

失ったものは大きい。

 

あの発色。深み。

暗部の中にさへ階調を伴い、白い雲さへ、豊かなグラデーションを演出する。

物質の奥へ、風景の深部へと見るものを誘う。

一度だけ、叶わないと知りながら、一度だけでいい

10本のコダクロームKRを持って旅に出たい。

知らない瀬戸内の町を、少し重みのあるニコンF3Pと歩いてみたい。

レンズは、50mmを1本だけ。

斜光の美しい漁港で、こころ行くまで、ファインダーを見ていたい。

ゆっくりとレバーを巻き上げる。

パトローネからフィルムが巻き取られる感覚。

絞りのリングを半分動かそう。

KRはオーバーに弱いから。

しかしシャドウは絶対に潰せない。

ぎりぎりに露出を切りつめる。

カメラと光と風景とフィルムが一つになる至高の瞬間。

シャッターが切れ、ミラーがあがる。

ファインダーが一瞬暗くなり、微かなショックが腕に伝わる。

カメラから目を離すと、きっと浜風と海鳥の声が聞こえてくるだろう。

切り取られた風景は、記憶より、なお鮮やかに、コダクロームに刻まれる。

デジタルカメラでは絶対に味わえないものを、また失ってしまった。

 

20090301-DSC04920-Edit

写真と言葉

私は写真に多くの言葉を費やしてきた。

しかし言葉に終着点はなく、満たされることはなかった。

自分の「表現」というものを手にすることが出来なかった。

そして写真を諦めた。

理論を捨て、言葉を捨て、表現を捨てた。

そして吉野へ引越しをした時、ふとしたきっかけで写真の楽しさと出会った。

私は写真の持つ困難さを手放し、新たな感覚と出会う装置としてカメラを使い始めた。

今、写真を撮ることは私の楽しみで、私を自由にする。

光を感じ風を見ることが出来る。

r0013251_edited-1

洞川を渡る心地良い風と空

r0013291

雑木林を揺らす風と朝の光

自分の眼と心が愉しまない物や事に別れを告げよう。

困難さを友として人生を歩む人たちと袂を分かとう。

これからは、愉快を生きよう。

この蝶ほどには、自由ではないけれど

r00132701