一陽来復

日が長くなり、犬の散歩も暖かく、たそがれ時に歩くと、景色も変わってまた楽しい。

小さな公園の桜がちらほらと咲きかけていた。冬に力を蓄えた桜の蕾は、どことなく力強く、内側からエネルギーを発散させている感じがした。

易経に一陽来復ということばがあるが、「冬が終わって春になる意や、逆境・不運など よくない事が続いた後 ようやく幸運が向いて来る意にも用いられる」という意味のようだ。

夕暮れに桜の花を見ていると、なぜか優しい気持ちになれる。楽しいことが起こりそうな気がする。いつもより薄着で過ごせる嬉しさかもしれない。

一陽来復、桜の蕾を見ていてこの言葉を思い出した。

公園の桜

ゆきやなぎ

東吉野村から大淀町へ引っ越して、犬達との散歩の風景も随分と変わった。

冷え込みの厳しい東吉野では、桜は、春の訪れを告げてくれる嬉しい花だ。

「あの山の麓の桜が一番に咲き、あの谷の桜が最後に咲く。そしてその頃には、ウグイが産卵する。だからあの桜をウグイつき桜と言うんだよ。」と老人が教えてくれた。

山に点々と咲く桜に混じってこぶしの花も咲く。私はここに居ますよというように、美しい花を咲かせる。

毎年同じように花が咲き、人は一つずつ老いてゆく。何も変わらないようで、すべてが変わっていく。

住宅街でも大淀町は自然が残っていて、散歩の道すがら誰が植えたのか、ゆきやなぎが咲いていた。

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早く花が咲けば良いのにと思い、咲けば散らないで欲しいと思う。

この矛盾した思いに、無常という言葉を重ねる。

最近は、咲く花よりも散る花に心が動く。

春を待つ吉野山

今日は、夕方から吉野町商工会で打ち合わせがあり、少し早く到着したので、花を待つ吉野山へと様子を見に行ってきました。

花見塚の近くから観た吉野山は、夕方の斜光が霞に反射し美しく輝いていました。

花を待つ吉野山

桜が咲き始めると多くの観光客で賑わい、地元に住む私は、混雑を避けて桜の季節に吉野山に登ったことがありません。

「これはこれはとばかり花の吉野山」
と貞室が読んだような吉野山を今年は観てみたいと思っています。

吉野で仕事をしていると林業をどのように活性化させるか、地元を元気にするにはどうすればいいのかという話をする機会が増えてきました。
なかなかに思うような答えを見いだせず、私も含め、各人各様に思案している状況です。

しかし本当に元気がないのは、林業や地方の経済ではなくて、私たち自身ではないのかと思うことがあります。

自分自身の元気のなさを林業の不振や、地元の地盤沈下の性にしているように感じるときもあります。

吉野には素晴らしい伝統や人々、暮らしがあります。一人一人の元気と分かち合う気持ちが、吉野を楽しくさせます。
まず人ありき。
経済の復興はそれからでも遅くないような気がしています。少し暢気でしょうか。