隣の空き地に野バラが咲いている。
蕪村の
愁いつつ 岡にのぼれば 花いばら
を思い出した。
別に
花いばら 故郷の路に似たる哉
がある。
蕪村は心の機微を表現することに長けている。
ゲーテに「野バラ」という有名な詩があるが、
内容を深読みしてしまいそうであまり好きではない。
蕪村の持つ原風景自身が愁いに満ちているのだろう。
情景に反応して微かに波立つ蕪村の心の機微。
「あわれ」「侘び」などに通じる日本人の心性なのかもしれない。
光と風の交わる場所で
空間が満たされている。
音楽と柔らかな光と珈琲の香りに
アン・サリーのナチュラルヴォイスに、マンデリン・スマトラの苦みが解け合い、心地よい甘みに変わる。
フワフワのロールケーキ、甘さを押さえたクリームが珈琲の味を引き立てる。
少し冷めかけの珈琲を何気なく口に含むと軽い驚きを覚える。
温度が下がっても、いや温度が下がるほどにクリアさが増していくような気がする。
酸味、甘み、苦みがほどよく調和し心を和ませる。
大阪でも神戸でも、美味しい珈琲を飲ませるお店が減ってきたような気がする。
私たちが、珈琲の本当の味を忘れてしまったことが原因かもしれない。
私は学生の頃、あるお店のオーナーに珈琲のことを教えてもらった。
何年もそこの珈琲を飲み続けて、味が変化していくのも知った。
昔は、お客がバーのマスターを育て、マスターがお客に飲み方を教えたように、
珈琲もまた伝えて育てなければ消えてしまう文化かもしれない。
珈琲の味を忘れてしまった人たちは、一度PEACE PEACE PEACEを訪ねて
本当の味を思い出した方が良いのかもしれない。
12月にこの店を訪れてから、家で丁寧に珈琲を淹れるようになった。
「珈琲はたくさんあるようですが、2種類しかありません。美味しい珈琲か美味しくない珈琲です。」とオーナーが教えて下さいました。
PEACE PEACE PEACEの珈琲は間違いなく「美味しい珈琲」です。
FMラジオのゴンチチの番組で桃山晴衣さんの死去を知った。
昨年の12月にお亡くなりになったのでもう5ヶ月も経っている。
梁塵秘抄が面白くてよく読んでいたとき、桃山晴衣さんの「梁塵秘抄の世界」を知った。
梁塵秘抄は、元々は今様歌謡を集めたものであるから、歌われ舞われたものだと思うけれど、現在では、文字しか残っていないので想像するしかない。
その梁塵秘抄に桃山晴衣さんが曲をつけて三味線と雅楽で唄っている。
声はどこか艶っぽくて、平安時代末期の艶やかさが伝わってくる。
梁塵秘抄では、
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
が有名だけれど、それ以外にもたくさんの名作がある。
平安時代の庶民の仏教えに対する思いや、恋の歌が素敵で
わが恋は一昨日見えず昨日来ず、今日音信無くば明日の徒然いかにせん
恋ひ恋ひて邂逅に逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る、さしさしきしとたくとこそみれ
などを桃山春衣さんが唄うと時空を超えた人の思いのようなものが伝わってくる。
一度はライブで演奏を聴いてみたかった。