桃山晴衣と梁塵秘抄

FMラジオのゴンチチの番組で桃山晴衣さんの死去を知った。

昨年の12月にお亡くなりになったのでもう5ヶ月も経っている。

梁塵秘抄が面白くてよく読んでいたとき、桃山晴衣さんの「梁塵秘抄の世界」を知った。

梁塵秘抄は、元々は今様歌謡を集めたものであるから、歌われ舞われたものだと思うけれど、現在では、文字しか残っていないので想像するしかない。

その梁塵秘抄に桃山晴衣さんが曲をつけて三味線と雅楽で唄っている。

声はどこか艶っぽくて、平安時代末期の艶やかさが伝わってくる。

梁塵秘抄では、

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

が有名だけれど、それ以外にもたくさんの名作がある。

平安時代の庶民の仏教えに対する思いや、恋の歌が素敵で

わが恋は一昨日見えず昨日来ず、今日音信無くば明日の徒然いかにせん

恋ひ恋ひて邂逅に逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る、さしさしきしとたくとこそみれ

などを桃山春衣さんが唄うと時空を超えた人の思いのようなものが伝わってくる。

一度はライブで演奏を聴いてみたかった。

ただその人のこころにあり  西行桜

昨日のブログに、ことさら桜の花を撮影しないと書いた。

これは、桜に浮かれ騒ぐ人たちへの非難が暗に入っているようで、少し恥ずかしい。

こんなことを考えていると、能に「西行桜」というのがあると我が家の相棒が教えてくれた。

修行の障りになるのをおそれた西行が、今年は花見客の訪問を受けまいと決心するが、都の花見客に乞われて仕方なく見物をゆるしてしまう。

「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜の咎にはありける」

と桜に咎があるような歌を詠みます。

夜に桜を見ていると、桜の精の老人が西行を訪れ

「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、

非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ」

という詞を述べます。

ほんとうにその通りで、草木に憂き世の咎などはないのだ。

「西行桜」の話を知って、私の心の狭さが桜の花を通して現れたのだと気づいた。

陶淵明にも「心遠ければ地も自ずから偏なり」という詩がある。

世界は自分の見るように見える。

解ってはいるが、気づくことは難しい。

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月は東から

与謝蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」の俳句を思い出すように、月が出て日が沈んでいった。

この当たり前のことが、何故か腑に落ちて楽しかった。

毎日ほぼ同じ道を犬たちと歩く。

目をこらせば、今まで見ると事の出来なかった情景に出会える。

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蔓に光が当たって輝いている。

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様々な草花が重なり、美しい情景が生まれる。

花は何処にでもあることに気づく。

足下の草花を撮影することが最近の楽しみだ。