感覚・・・写真についての覚書

カメラを持って歩いていると、はやり感覚が敏感になる。

出会いたい感覚があるのかもしれない。

心の微かな揺れを増幅し、身体全体で感じようとする。

私にとって、写真は自分の出会いたい感覚のコレクションかもしれない。

感覚をカメラで捉え、写真にするときに「表現」が必要になるのだろう。

自分が感じたものをそこなうことなく、写真上に現そうという思いが「表現」を見いだす。

表現とは、私の場合、世界と自分が出会う「様式」の新しい発見というところだろうか。

新しい様式はいつか捨てなければならない。

表現はいつしか眼の癖になり、自分自身を拘束する。

表現を手放し、感覚を得る。

r0013238_edited-1

この作業をこの先どこまで続けるのだろう。

きっと自分を求めなくなるまで。

下方の階段の写真をよく見ている。

今の私にとっての好ましい感覚。

dsc05098

自分に疲れるときは

体力的な疲れや精神的な疲れよりも、時に自分に強く疲れる。

自分の自我のありようが、その逃れ難さがどうしようもなく、自分を覆う。

春は自我さへも勢いよく育っていくのかもしれない。

いつになればこの自我を手放すことができるのだか。

今世が無理なのは解ってはいるが。 

 

自分に疲れたときは、古い写真を取りだして眺めてみる。

若い頃の写真は、どこかに静謐さと真剣さがある。

見失いかけた自分の影が見える。

孤独を恐れない強さがある。

 

昔のモノクロームの写真を見ていると、その場所の音や香り、風、湿度などを感じる。

この場所でよく生きたのだろう、よく見たのだろうと思う。

image2-1

被写体のしての桜

私はことさら桜を撮影することがない。

桜が咲けば美しいと思い、散れば美しいと思う。

道を歩くとき、空気を感じるとき、光に心が満たされるとき、カメラを向ける。

それが桜であることは少ない。

桜は春の象徴のようで、その概念を打ち破るほどの出会いをしていないのかもしれないし、私にそのような力がないのかもしれない。

r0012738

 

r0012746

春という季節を静かに見つめ、やり過ごしたいと思っている。

桜を見るとき、そっと息を吐きながら、小さな思いで見つめていたい。

春が深くなるほどに、晩秋への思いは募る。

人生の秋を迎えた身には、春は少し騒がしい。

カラーで桜の樹を撮影することは難しい。

モノクロームの桜が私の思いに少し近い。

r0012787