表現を手放すとき

写真を撮るとき、知らず知らずに自分を表現している。

または、自己表現ということを求めて写真を撮影する。

そのいずれも、持続した作業の内に、自分自身に「表現」というものが身に付いてくる。

しかしそれは、表現ではなくて癖かもしれない。
単に嗜好の偏りかもしれない。
心の思い込みかもしれない。

私が求める自己表現とは、そこに自分がないこと。
違う言葉で言えば、自分がなくなるまで表現すること。

これが自分の表現だと気づいたときに、その表現を手放す。
そしてまた、作業が続く。

いつも新しい眼差しで、新しい世界と出会いたいから。

自分が自分を求めなくなるその日まで、私の作業は続く。

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言葉の見える場所

ご無沙汰しております。年賀状ありがとうございます。

 

最近の写真をお送りします。自宅のプリンターで印刷してお送りしようと思ったのですが、少し気分を変えて小冊子にしてお送りします。

少しコントラストが低い印刷ですが雰囲気は出ていると思います。

 

2~3枚の写真を除いて、犬達との散歩の行き帰りに撮影しました。

毎日通るいつもの場所を撮影しています。

コンパクトデジカメで撮影していますので、しっかりとファインダーを見て撮影しているわけではありませんが、きっちりと「感じた」ものを撮影しています。

 

近頃は、「ファインダーを見る」という行為よりも、「ファインダーから感じる」ということを優先させています。出来るだけ「微かに感じた」ものをカメラを通して再現したいと思っています。

 

この小冊子の写真集に「Place where word is」(言葉の見える場所)というタイトルを付けました。

私たちは言葉を使わずに考えること(思考すること)は出来ません。どんな考え(思考)も言葉の制約を受けてしまいます。

 

しかし言葉を超えた「感じ」を受け取る事が出来ます。しかしその感じが自分に届いた瞬間に「言葉で」思考を初めてしまいます。

自分に届いた「感じ」を、言葉になるより早く「写真」に残したいという思いがあります。

 

私は写真を撮りながら「新しい言葉」「言葉を超えた言葉」を求めているのかもしれません。

誰にも聞こえない自分にだけ発せられる「風景からの言葉」をゆっくりと受けとめ、今まで知らなかった言葉で自分自身と語り合いたい。

 

私のだけの「言葉が見える場所」で少しの時間佇んでいたいものです。

 

若かった頃の「修行のような撮影」とは違い、最近は写真を撮ることが「楽しいこと」になりました。自分でも少し険しい部分が少なくなったのでは無いのかと思っています。

 

一度新緑の吉野をお訪ね下さい。お会いできる事を楽しみにしております。

 

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モノクロームの誘惑

デジタルカメラのモードをモノクロームに設定すると、ディスプレイもモノクロになる。

実際の風景をモノクロームの画面で見るのが面白くて、ついモノクロモードで撮影してします。

モノクロームはどこかもの悲しく、心が風景に傾き、静かに波打つのがわかる。

いつもの道、いつもの朝に特別の光に出会える。

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