投稿日: 2009 年 2 月 18 日2009 年 2 月 18 日 投稿者: nobuモノクロームの憂鬱 なぜモノクロームに惹かれるのか。 どうして、モノクロームで撮る街は寂しいのか。 即物的に配置される街の風景と少し距離をとり、そして、眺める。 モノクロームに単純化される風景は、表層を取り落としたように、どこか物憂げで寂しい。 カラー写真に比べて、より心象が表現されやすいのだろうか。 それとも、心象的な風景に私自身が反応しやすいのだろうか。 街で撮影するモノクロームは、いつも、どこか、憂鬱だ。
コメントをどうぞ モノクロ撮影をしない私はもっぱら見るだけです。 そして、カラーとの、その近しい差異を無意識に潜ませ、もっぱら一つの写真として見てきたようです。 一方、カラー写真はそのなかに様々な差異が存在し、恣意的なイメージもあるような気がします。 現に私などは、8年程前から薦められたフィルムを使っていますが、大袈裟に言えば、意志にまで関わったといえるのでは、等と思ったりします。 モノクロに還ります。 最近では、森山大道さんが故郷を撮った「宅野」がとても印象的でした。 思いの感情はこれほど、風景を美しくするのか! と感じるほどでした。 先ず感情ありきの「感情と感覚」の同調です。 森山さんを私は感覚派だと思っています。 新宿とかは、先ず感覚ありきの「感覚と感情」或いは「感覚と思考」、そしてときたまある直感に惑わされる… でも一方、感覚だけが投げ出され、あとは見るものの自由に委ねられる。 そんな印象が多くを占める時があります。 この場合、「4区」のように感覚の楽しさだけを味わうことが多くを占めるという、一つの森山イズムに流されないように、注意が必要かもしれません。 また、吉増剛造さんが指摘されるように、「遠野」などは別格で落ち着きどころが難しい写真もあります。現地で何かの感情が、溢れてきたのかもしれませんし、それは感覚かもしれません。 さて、nobuさんの「路地のある町」は感情ありきだと思いますが、カラーです。 散歩がてらで見る樹木や草花、夕景なども情緒性を排除することなく、感情を拠り所として、これもカラーです。 でも、そうして歩いていると混沌として無秩序な風景に出会う。 情景的な部分を含みながら、今まで経験したなかでの無秩序な感覚などが反応して獲得される、軽やかな散歩が与えてくれる恩恵‥ どこか自然に対する、気持ちまで見えてくるようです。 さて、nobuさんのモノクロは私の携帯では、二つの傾向があるように思います。 写真雑誌の知識で申し訳ないところですが、まだフィルムのモノクロに対してデジカメのそれは、差がある、少し質が落ちるという。 私もそんなことは微々たることで、デジタルカメラのモノクロには持っていない者としての期待感がありました。 もちろん、デジタルカメラも性能が高いものがあり、画素数が20万を越えるものは、場合によっては4×5の能力を上回るという(モノクロの能力は知りません)ことも承知はしているつもりです。 だから、というわけではないのですが、nobuさんのモノクロでは、今のところ以前撮られたフィルムでの6×6に気持ちが強く傾きます。 6×6という画角は私の画角でもあるので、差し引きは必要かもしれないのですが…。 ただ、今回のモノクロ3枚は画角がその6×6なんですね。 私には6×6の画角にも対応できるデジタルカメラに思えるのですが‥でもこれは何時撮られたものでしょう。 場所は下町から、都市へ。たとえば京橋辺りかな、とも想像しますが‥。 憂欝な風景とは、私の気質のような風景かな、と少し落ち着きませんが、 一枚目などはそんな気が漂っているのかな、とは思いました。 そして、三枚を通して感じるのは、何かが足りない…と不足感を持つことです。 何の不足感でしょう。 私はこの三枚は感情からは入っていないと思うのですが、 感覚か思考かとなると微妙なところです。 でも私なら感覚だろうなと思うのですが、その動機自体が憂鬱的な気がしてなりません。 そして、思考も停滞気味で、感情が働くまで到らない、それこそ憂鬱になるような気がするのです。 モノクロは難しいとは思いますが、 それ以上に撮影における「私と被写体」との関係、 特に直感というパワーに頼らないのであれば、 やはり「装置」は必要な気がしました。 好きな撮影場所などは、一番恵まれた「装置」になるでしょうか…。
モノクロで撮るのか、カラーで撮るのかはその時の光の状況で変わります。 最近雑踏が苦手で、街などでカラーを撮るのが辛くてついモノクロームでということもあります。 街という撮影装置から自分が段々と遠ざかっているのがわかります。 ブログに掲載する写真は、精査されたものではなく、予感されたものもたくさんあります。 その写真を撮影したから、次が見えるかもしれない。そのような予感を大切にしています。
コメントをどうぞ 足りない、と感じたのは予感の所為だったかも知れないですね。 そう思えば、三枚はそれぞれ違う眼差しがあります。 私は最近nobuさんの写真を見てきて、文章にも自然に出てきているように、感覚・思考・感情という欠かせない三つの事柄を前面に、撮影場所との関係に着目しています。 特に感情が強く意識されているのですが‥ 既にペプシを求め、撮影に動いているカールさんように、森に雑木林に街(下町)にと、思いが馳せるのです。 自然を撮られている写真からの影響ですと、 奄美大島に行きたくなりましたが、 下町の影響からは、以前車で難波から東に進み、何処かで北へ… 気がつくと森小路辺りを走っていましたが、その道すがらの風景を思い出しました。 今年は花粉症がきつくて、少し治まってからの歩きになりそうですが、 他者からの働きかけを、ありがたく思わずにはいられません。
コメントをどうぞ プログというのは、知性と全体指向への好ましい装置だと思います。 nobuさんのプログのように、植物図鑑のように細分化された、それぞれは己の、世界との感覚・感情・思考の捉え直しと発見に向かう、可能性に満ちた装置であると思います。 そして己の俯瞰装置でもあると…。 では私のような他者はそこに何を見るのか‥ 先鋭的な部分から光輝く“個”だけを見つめるのか…微妙な差異が含まれている全体をどのように見るのか…。 ここには、修業的なるものの一側面である負性から離れた自由(楽しさ)があり、 これらを見る私などは、 自由を分かち合うとともに、自由のなかの修業的なるものに気付かさせてもらい、そのようなコメントができたらと考えます。 なんども言うようですが、そんな場が与えられたことに感謝し、楽しいコメントをしたいです。 このページで自分でも元気のでないコメントをしてしまいました。 nobuさんのペプシ以外の下町の写真、そして今回の三枚の写真も、実は面白いのです。 できたら、これからも建物や道が入った写真をのびのび撮って欲しいものです。
コメントありがとうございます。 自由であるためには、自由であるために修行のようなものがあります。 ブログは、自分を多面的に俯瞰するための道具としては最適です。 自分の写真の中では道の写っている写真が好きです。 道の延長に建物があり、その一番手前には自分自身がいます。 絶えず表現の可能性を感じられる写真を撮っていきたいと思います。
コメントをどうぞ BSでサウンドオブミュージックを見ました。 以前見た記憶があるのですが、こんな素敵な映画だったとは思いませんでした。 そのなかで脳裏に浮かぶのは、第一に大佐の微妙な表情の変化です。 そしてマリアが大佐の家を訪ねる時の、あのオーストリア郊外の素敵な一本道、そこを荷物と傘を両手に、走りながら、跳ねるように踊り歌うマリア。 少しあとになって、子供たちが修道院に戻ったマリアを訪ねる場面、左に樹木、奥に素敵な構造の建物。 大佐の家では左に、ここでは右手の修道院へ。 素敵な“道”の場面でした。
コメントをどうぞ
モノクロ撮影をしない私はもっぱら見るだけです。
そして、カラーとの、その近しい差異を無意識に潜ませ、もっぱら一つの写真として見てきたようです。
一方、カラー写真はそのなかに様々な差異が存在し、恣意的なイメージもあるような気がします。
現に私などは、8年程前から薦められたフィルムを使っていますが、大袈裟に言えば、意志にまで関わったといえるのでは、等と思ったりします。
モノクロに還ります。
最近では、森山大道さんが故郷を撮った「宅野」がとても印象的でした。
思いの感情はこれほど、風景を美しくするのか!
と感じるほどでした。
先ず感情ありきの「感情と感覚」の同調です。
森山さんを私は感覚派だと思っています。
新宿とかは、先ず感覚ありきの「感覚と感情」或いは「感覚と思考」、そしてときたまある直感に惑わされる…
でも一方、感覚だけが投げ出され、あとは見るものの自由に委ねられる。
そんな印象が多くを占める時があります。
この場合、「4区」のように感覚の楽しさだけを味わうことが多くを占めるという、一つの森山イズムに流されないように、注意が必要かもしれません。
また、吉増剛造さんが指摘されるように、「遠野」などは別格で落ち着きどころが難しい写真もあります。現地で何かの感情が、溢れてきたのかもしれませんし、それは感覚かもしれません。
さて、nobuさんの「路地のある町」は感情ありきだと思いますが、カラーです。
散歩がてらで見る樹木や草花、夕景なども情緒性を排除することなく、感情を拠り所として、これもカラーです。
でも、そうして歩いていると混沌として無秩序な風景に出会う。
情景的な部分を含みながら、今まで経験したなかでの無秩序な感覚などが反応して獲得される、軽やかな散歩が与えてくれる恩恵‥
どこか自然に対する、気持ちまで見えてくるようです。
さて、nobuさんのモノクロは私の携帯では、二つの傾向があるように思います。
写真雑誌の知識で申し訳ないところですが、まだフィルムのモノクロに対してデジカメのそれは、差がある、少し質が落ちるという。
私もそんなことは微々たることで、デジタルカメラのモノクロには持っていない者としての期待感がありました。
もちろん、デジタルカメラも性能が高いものがあり、画素数が20万を越えるものは、場合によっては4×5の能力を上回るという(モノクロの能力は知りません)ことも承知はしているつもりです。
だから、というわけではないのですが、nobuさんのモノクロでは、今のところ以前撮られたフィルムでの6×6に気持ちが強く傾きます。
6×6という画角は私の画角でもあるので、差し引きは必要かもしれないのですが…。
ただ、今回のモノクロ3枚は画角がその6×6なんですね。
私には6×6の画角にも対応できるデジタルカメラに思えるのですが‥でもこれは何時撮られたものでしょう。
場所は下町から、都市へ。たとえば京橋辺りかな、とも想像しますが‥。
憂欝な風景とは、私の気質のような風景かな、と少し落ち着きませんが、
一枚目などはそんな気が漂っているのかな、とは思いました。
そして、三枚を通して感じるのは、何かが足りない…と不足感を持つことです。
何の不足感でしょう。
私はこの三枚は感情からは入っていないと思うのですが、
感覚か思考かとなると微妙なところです。
でも私なら感覚だろうなと思うのですが、その動機自体が憂鬱的な気がしてなりません。
そして、思考も停滞気味で、感情が働くまで到らない、それこそ憂鬱になるような気がするのです。
モノクロは難しいとは思いますが、
それ以上に撮影における「私と被写体」との関係、
特に直感というパワーに頼らないのであれば、
やはり「装置」は必要な気がしました。
好きな撮影場所などは、一番恵まれた「装置」になるでしょうか…。
モノクロで撮るのか、カラーで撮るのかはその時の光の状況で変わります。
最近雑踏が苦手で、街などでカラーを撮るのが辛くてついモノクロームでということもあります。
街という撮影装置から自分が段々と遠ざかっているのがわかります。
ブログに掲載する写真は、精査されたものではなく、予感されたものもたくさんあります。
その写真を撮影したから、次が見えるかもしれない。そのような予感を大切にしています。
コメントをどうぞ
足りない、と感じたのは予感の所為だったかも知れないですね。
そう思えば、三枚はそれぞれ違う眼差しがあります。
私は最近nobuさんの写真を見てきて、文章にも自然に出てきているように、感覚・思考・感情という欠かせない三つの事柄を前面に、撮影場所との関係に着目しています。
特に感情が強く意識されているのですが‥
既にペプシを求め、撮影に動いているカールさんように、森に雑木林に街(下町)にと、思いが馳せるのです。
自然を撮られている写真からの影響ですと、
奄美大島に行きたくなりましたが、
下町の影響からは、以前車で難波から東に進み、何処かで北へ…
気がつくと森小路辺りを走っていましたが、その道すがらの風景を思い出しました。
今年は花粉症がきつくて、少し治まってからの歩きになりそうですが、
他者からの働きかけを、ありがたく思わずにはいられません。
コメントをどうぞ
プログというのは、知性と全体指向への好ましい装置だと思います。
nobuさんのプログのように、植物図鑑のように細分化された、それぞれは己の、世界との感覚・感情・思考の捉え直しと発見に向かう、可能性に満ちた装置であると思います。
そして己の俯瞰装置でもあると…。
では私のような他者はそこに何を見るのか‥
先鋭的な部分から光輝く“個”だけを見つめるのか…微妙な差異が含まれている全体をどのように見るのか…。
ここには、修業的なるものの一側面である負性から離れた自由(楽しさ)があり、
これらを見る私などは、
自由を分かち合うとともに、自由のなかの修業的なるものに気付かさせてもらい、そのようなコメントができたらと考えます。
なんども言うようですが、そんな場が与えられたことに感謝し、楽しいコメントをしたいです。
このページで自分でも元気のでないコメントをしてしまいました。
nobuさんのペプシ以外の下町の写真、そして今回の三枚の写真も、実は面白いのです。
できたら、これからも建物や道が入った写真をのびのび撮って欲しいものです。
コメントありがとうございます。
自由であるためには、自由であるために修行のようなものがあります。
ブログは、自分を多面的に俯瞰するための道具としては最適です。
自分の写真の中では道の写っている写真が好きです。
道の延長に建物があり、その一番手前には自分自身がいます。
絶えず表現の可能性を感じられる写真を撮っていきたいと思います。
コメントをどうぞ
BSでサウンドオブミュージックを見ました。
以前見た記憶があるのですが、こんな素敵な映画だったとは思いませんでした。
そのなかで脳裏に浮かぶのは、第一に大佐の微妙な表情の変化です。
そしてマリアが大佐の家を訪ねる時の、あのオーストリア郊外の素敵な一本道、そこを荷物と傘を両手に、走りながら、跳ねるように踊り歌うマリア。
少しあとになって、子供たちが修道院に戻ったマリアを訪ねる場面、左に樹木、奥に素敵な構造の建物。
大佐の家では左に、ここでは右手の修道院へ。
素敵な“道”の場面でした。