吉野山

吉野での生活も10年を超えて、桜、盛期の吉野山を初めて訪れた。

普段は人出の多さに圧倒されて、出かけることをためらっていたけれど、今年は意を決しての桜遊。

如意輪寺から見る吉野山は、美しく山が桜で霞んで見える。山に咲く桜は、堤に並ぶ桜よりも美しような気がする。

川の精気と山も精気の違いかもしれない。場所の歴史の違いかもしれない。

しかし、蔵王堂付近は土産物店が軒を並べ、人出も多く、風情を感じるのが少し難しい。

 「さまざまな こと思い出す 桜かな」
という芭蕉の句の通り、桜はいつも思い出と共にある。

今年の桜を数年後どのように思い出すのだろうか。

それとも思い出すこともなく、吉野山から逃れるように行った、秋津温泉の少し濁ったお湯を思い出すかもしれない。

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蜻蛉の滝

川上村で講習の打ち合わせがあり、今年も夏の3ヶ月間、パソコン講習が開催されることになった。

打ち合わせの帰りに、少し早いとは思いながら蜻蛉の滝を訪れた。

歴史に有名な蜻蛉の滝は、公園のようになっていて、枝垂れ桜や様々な桜が植えられている。

ここ数日の冷え込みで開花は遅れるだろう。

 この時期、在原業平の

「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」

を思いだし、今も昔も春を待つ人の心に変わりはないのだなと感慨に耽ってしまう。

写真は、蜻蛉の滝にある桜の木。つぼみはつぼみでまた美しい。

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里の家

私は大阪で生まれ育ったので、花木に囲まれたふるさとを持たない.

大阪の下町の狭い路地を抜けている夢を見ることがある。
いつもの道を歩いていると小さな小川が流れ、岸に黄色い花の咲く優しい風景に出会う。
よく知っているようで、知らない、既視感のある風景だ。

実際には眼にしたことのない風景かもしれないし、早春に東北を旅したときの風景かもしれない。

この夢を見るとき、私は小学生の格好をいていることが多い。
もしかしたら私の原風景かもしれない。

カメラを持って歩いていると、ふっと懐かしいと感じる景色に出会う。

私は住んでいたこともない景色を懐かしいと感じ、シャッターを押す。

 陶淵明の「桃花源記」が好きで、この話を読むたびに、一度桃源郷を訪れてみたいと思う。

人はその心の深部に、それぞれの桃源郷を持っているのだろう。

それが時々夢の姿を借りて、少し荒んだ現実を慰めに現れてくれるのかもしれない。

花の家