西行庵 錦秋

桜で有名な吉野山でも、山のそこ彼処で紅葉を見ることができる。

 写真は奥吉野にある西行庵。

奥に見える庵に西行の像が安置されている。

本当に小さくて狭い庵で、その隠遁生活を慕って芭蕉もここを訪れている。

昔から世界中に隠遁生活を送った隠者がいる。

しかしと思う。私たちはなぜ「隠者」を知っているのかと。

私は徳の高い隠者の話を見聞きするとき、ふっと名もなく消えた人々の消息に思いを馳せる。

日常を淡々と生き抜いた人こそ、真のすぐれた隠者ではないのかと思うことがある。

隠者であろうと努力することもまた、強烈な自己表現のような気がする。だから芭蕉も西行も後世に名を残しているのだなと、妙なことに感心してしまった。

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路地

私の生まれ育った場所は、大阪でも下町で路地が多い。

小学生の私は、いつも路地で遊んでいた。

路地から路地へ、車が通ることの出来ない道は、すべて子供の遊び場だった。

写真の路地の突き当たりには、墓地があり、その向こうには運河が流れている。

写真の右側、今は駐車場になっているけれど、昔は練炭と石炭のお店だった。

右下のマンホールに空き缶を置いて、よく缶蹴りをしていた。

いまでも時々路地で遊ぶ夢を見る。

夢の中で見た路地は、どこか懐かしく、暖かい感じがする。

実際にあった場所はどうかは思い出せないが、夢の中の路地を抜けると、

そこにはいつも、小さな小川と暖かい風が吹いてる。

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明日香の秋

桜井からの帰り道は、明日香を横切るのが近道。

私の住んでいる地方は少し車で走れば名所が多い。

時間に余裕がある時に少し遠回りをすると季節を感じる風景に出会う。

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写真は明日香の風景。コスモスが咲き、稲が干されている。

この風景を見ていてふっと感じたことがある。

私たちの生活は「過ぎている」と。

栄養が、ビタミンが、運動が、足らないのではない。

何かが過ぎている。すべてに調和が取れているのに、何かを求めている。

少しの間、自分に足りないものを考えるのではなく、過ぎているものを考えてみよう。