火に憩う

_DSF3094最近のカメラは写りすぎるのかもしれない。

FUJIのX-E1はシャープさの中に優しさを感じる。

レンズがいいのだろうか。温もりさえ写る気がする。

 

蓮への思い

今回でこの蓮畑の撮影は4回目になる。

自分の写真を見ていてもどかしく、しっくりと来ない。

恋い焦がれていた人にばったりと出会って、どうして良いか分らずに右往左往しているようだ。

今回は勇気を出して、思いを打ち明けて見たが、どうも上手く伝わらなかったようだ。

私の思い込みの強さに、相手が引いてしまったのかもしれない。

 

私にとっての良い写真とは、写し取った写真の結果だけではなくて、その出会いのプロセスが、撮影までのこころの有り様が大切になる。

私の写真は、私と光景の微かな、しかし、愛おしいこころの交流から生れる。

私の思いと光景の思いとが上手く重なるとき、素敵な写真を撮ることが出来る。

そこに日常を超えた、私だけの光を見ることができる。

 

この蓮の写真を見ていて、自分の写真に対する課題の多さに気づかされる。

このとても楽しみな修行は、まだまだ続きそうだ。

 

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部分が全体になるとき

吉野川の河畔で久しぶりのバーベキューがあり、場所取りに出かけた。

午後2時の河原は焼け付くようで、少しめまいがしそうだ。

メンバーがまだ来ていないので、少し河原を歩く。

草と石の間から黄色い花が見える。

ぼ~と眺めていると、その乱雑な風景と自分との距離が縮まっていく。

風景と心が一つになっていくような感じがした。

カメラを構えてシャッターを押す。

まとまりの無さが美しい。

写真は多様なもの、雑多なものを同じ平面に映し出す。

空と川面を同時に映し出す。

葉っぱと空を同時に映し出す。

時間と空間を同時に映し出す。

肉眼では箇々に見える事柄も、

ファインダーの中では同時に見ることが出来る。

同時に感じることが出来る。

これがカメラの可能性かもしれない。