Category Archives: 浅い眠り遠い目覚め

芭蕉の音

「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」

この状況を芭蕉は、

「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」

と俳句にした。

実際にこの 「水のおと」 を聞いたのは芭蕉だけであり、私には空想することしかできない。

そしてこの空想は、どんどん拡がり、日がな一日この俳句が、私の内を去来する。

この芭蕉によって開示された世界は、途方もなく豊かで大きく、様々な光景となり、音となり、光となる。

この音を聞いた瞬間の世界から、少し過去へ、少し未来へ、芭蕉以前の世界へ、芭蕉以後の世界へ、

太古の世界へ、無の世界へと「水のおと」の波紋が広がる。

 

芭蕉はこの俳句で自分の経験をきっちりと語り、そして自分を消す。

「私は 古い池に 蛙が 飛び込む音を 聞いた」

この極めて私的な芭蕉のこころの有り様が、存在すべてに思いを巡らすほどに私を捉える。

芭蕉という個性が、時間を超え、土地を越え、普遍性として、大いなる存在として、私には感じられる。

15文字の曼荼羅。非自己であることの存在。その豊かさ。

いつの日にか、芭蕉と同じ「水のおと」を聞くことができるのだろうか。

 

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雲はマインドに似ている

空を見上げると、雲に覆われて太陽が見えない。

花に向けたカメラを脇に提げて、

ゆっくりとその場所にたたずむ。

その場所にくつろぎ、ただ雲が去るのを待てばいい。

どうせ自分の力で雲を消すことはできないのだから。

 

花の姿に見とれていると、

額に暖かなエネルギーを感じる。

雲が切れ始め、ゆっくりと、おぼろげに太陽が姿を見せ始める。

草花が光を透過して、透明に輝き始めた。

 

雲はマインドに似ている。

本来の自分を見ようと思っても、

雲が姿を変えて現れては、太陽を被ってしまう。

少し、光が差し始めても、また次の雲が光の前を覆ってしまう。

自分の力で雲を払うことは出来ない。

太陽を覆う雲は、自分の努力や我慢で消すことは出来ない。

 

ただその場所にくつろぎ、雲を眺める。

そして、雲を受け入れたとき、

太陽のエネルギーで、厚い雲が少しずつ溶け始める。

雲の切れ目からゆっくりと太陽が姿を現し、

私を光で満たす。

 

どんな厚い雲の向こうにも、青空が拡がり、

太陽があることを私たちは知っている。

そしてその太陽の向こうには、宇宙があることも。

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私は、努力している花、緊張している花、我慢している花を見たことがない。

花はその与えられた場所々で、くつろぎ、自分を受け入れている。

苦悩がいつか懐かしい場所になる

久しく遠ざかっていた高橋巌さんの新刊書を手にした。

タイトルは「シュタイナー 生命の教育」

若いころにi幾度、シュタイナーや高橋巌さんの書籍を手にしたことだろう。

しかし、シュタイナーの教えを深く、自分の経験にすることができなかった。

今でも私の一番の愛読書は、「ヨーロッパの闇と光」で、ここで引用されているゲーテの言葉「感覚はあやまたない、判断が誤る」は座右の銘で、20年以上経った今もその思いは変わることがない。

いやむしろ、この書籍で語られる「感覚の優位」がますます自分の中心を占めていることが解る。

しかし高橋巌さんに対する畏敬の念とは反対に、何故かシュタイナーやドイツローマン派との距離を縮めることはできない。

ノヴァーリスやゲーテ、リルケ、フリードリヒは遠い存在になってしまった。

しかし、久しぶりに手にした「シュタイナー 生命の教育」の中で多くの素晴らしい言葉と出会うことができた。

その一つ、「苦悩がいつか懐かしい場所になる」

これは、リルケの「ドゥイノの悲歌」を高橋巌さんが解釈したもので、この苦悩は

「本当はこの世をものすごく愛している、だからこそなんとか自分で納得のできる人生にしたい、ということを前提にした上での苦悩だと思います」と書いてあり、

そして「自分の苦悩の体験は、自分の成長のプロセスになったり、自分のこの世への愛情の表現になったりする、ということなのだろうと思います。」と書き足している。

「この世を愛するがゆえに生まれる苦悩」

同じ苦悩なら「この世を愛するがゆえの苦悩」を持ちたいと思った。

また、『「苦悩を通過した明るさ」を語るときは、過去も未来も要らなくて、瞬間が永遠になる境地なのです。
その瞬間を、永遠に到る境地から引きずり出して、重たい過去を背負わせようとするのが知識であり、常識です。』

という文章に、禅や仏教が求めている境地に近しいものを感じる。

この本を手に取り、初めて神秘主義がシュタイナーが少し身近なものに感じられた。

しかし、私は「苦悩を通過した明るさ」を語るために、シュタイナーやドイツローマン派を必要とすることはないと思う。

今は、違うものから、違う方法で「苦悩を通過した明るさ」を感じ、語りたいと思っている。

私に、感覚の大切さを教えてくれた神秘主義とドイツローマン派に感謝しながら。