夏芙蓉

夏芙蓉、オリュウノオバ、高貴な汚れた血、そして路地。

夏の日差しの中に咲く芙蓉を見ると、中上健二の世界が過剰に想起される。

光当たる場所から見る路地の闇の世界。

路地の中で濃厚に繰り広げられる生と性と若者の死。

世界が白々とした明るさを持つほどに、他界としての路地は暗さを増す。

夏の強い光が、濃い影を生み出すように。

新宮にあったこの路地が更地になり、新しいビルが建つように、この国から多くの路地が消えていった。

路地の闇が消えていくほどに、人の心の闇が増えていくような気がする。

世界が平坦に美しくなるほどに、私たちは息苦しくなるのかもしれない。

人が生きるというその根底には、得たいの知れない渦巻くエネルギーが在るのだろう。

中上健二の「千年の愉楽」には、私たちが忘れてはいけない、生き物としての人の在りようが書かれている。

「オリュウノオバは霊魂のオリュウノオバにむかって、いつも床に臥ったままになってから身辺の世話や食事の世話をしてくれる路地の何人もの女らに訊かれて答えるように言って、霊魂のオリュウノオバが風にふわりと舞い、浜伝いに船が一隻引き上げられた方に行くのを見ていまさらながら何もかもが愉快だと思うのだった。オリュウノオバは自由だった。見ようと思えば何もかも見えたし耳にしようと思えば天からの自分を迎えにくる御人らの奏でる楽の音さえもそれがはるか彼方、輪廻の波の向うのものだったとしても聴く事は出来た。」
中上健二「千年の愉楽」

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朝の散歩

昨夜の雨の影響か、今朝は少し靄がかかっている。

夏の光とは思えない、やさしい光が降りそそぐ。

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露に輝く草花

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山芋の葉

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盛りを過ぎたあじさいの花が、美しい模様を描いている。
私が染色家なら、ため息をついたかもしれない。

時を重ねて見せる美しさに、心が寄り添う。

明日の私へ、そして友人に

あなたと出会ってから30年以上経ちました。

明日で私は50才になります。

遠回りをしながら、息を切らしながら、時には下を向き、北風に背を丸めて生きてきました。

確かなものなど何もなく、しかしある感覚に導かれて、今日まで生きてきました。

そして最近、私が出会ったのは、あなたと知り合った頃の30年前の私の後ろ姿でした。

しゃがみ込んでいる自分の肩に手を回して、ゆっくりと抱き起こしました。

長い年月をかけて、私は歩いてきたつもりでしたが、自分の周りを回っていただけでした。

私は、30年前の私の手を握って、

人生にはなにも不思議なことはないこと。

近道を、遠回りも、

成功も失敗も、偉い人も、偉くない人も、強い人も、弱い人もいないことを伝えました。

そして、未来も、過去も、時間もないということを伝えました。

あるのは、今ここに自分が存在しているとう事実だけ。

それがどれだけ素晴らしいことかを、30年前の私に告げました。

苦も、楽も、悲しみも、喜びも、

すべて存在する、今を生きているという証なのだと伝えました。

うんとうなずいて、彼は、微笑みながら私の中へと消えていきました。

 

あなたは、出会った時から、ずっと私の友人でした。

私は変わったでしょうか。

あなたはどんどん素敵になっていくけれど、果たしてあなたは変わったのでしょうか。

変わるとか、変わらないとか、気づくとか、気づかないとか、そんなことではなくて、

私たちは、最初から「在った」のでしょう。

 

時々私の写真を見て下さい。

私の写真には私のすべてがあります。

あなたの作品にあなたのすべてがあるように。

そして時々私の事も見て下さい。

そして、相変わらずと笑って下さい。

いつまでも、友人でいてくれて、ほんとうにありがとう。